THIS IS X’MAS イエスの真の物語

「愛」は平民を守る「盾」から社会秩序を守る「槍」へ

エルサレムでの大虐殺を生き延びたわずかなユダヤ人は、虐殺後も懲りずにパリサイ派とナザレ派とで対立を繰り返しましたが、キリスト教は新天地を切り開き、水面下でローマ帝国の属州で貧民層を中心に数多くのコミュニティーを形成し成長していきました。

その過程では、イエスがダビデの子孫だとか、ベツレヘムで生まれたとか、マリアは処女だったとか、イエスの復活は肉体によるものだったとか、とにかくイエスはキリストどころかいつのまにか神そのもだ!とハッタリは、エスカレートし原型を留めなくなってしまいました。

どんなに努力しても、かなりの時間が経過しても、キリスト教がローマ世界で多数派はになることはありませんでした。キリスト教もユダヤ教の一つだという認識しかローマ人にはなく、「ユダヤ人=めんどうくさい人たち」として一括りにされていました。実際に、元はといえばユダヤ人ですし、ユダヤ信仰を大切にしていました。しかし、割礼だとか断食だとか到底、ギリシャ人とかローマ人には受け入れられないものは、次々と捨て去って、とにかくイエス=キリスト=ダビデの子という3点セットだけを大切にしつつ、最後の晩餐とイエスの復活を最重視し、「愛」を中心としつつ、古来のユダヤ教に関しては妥協を繰り返しました。300年頃になると、その「愛」に救われたアルメニア王が「回心」し、キリスト教を正式に国教とすると、ローマ帝国でもその教義に注目が集まり始めました。コンスタンティヌスは、暴力で世界を支配した大皇帝でしたが、世界統一後には、母親の影響もあってか、この愛の宗教「キリスト教」こそが、侵略や暴力以外で唯一民を永続的に統率できるシステムだと判断しました。あちこちの地方で、全く言っていることがバラバラだったキリスト教はその信憑性を守ためにも教義を一貫させる必要に迫られました。皇帝コンスタンティヌスは神学者を集め、公会議を開き、イエスが本当にキリストで本当に神なのか、どの福音書が本物でどれが偽物なのか、全てはっきりさせるように命じたのです。この時に作られたのが「新約聖書」の改訂版であり、現存している最古の新約聖書もこの後に書かれたものとなります。この時に、コンスタンティヌスの意向もあり、それまで習慣的にローマ神話の太陽神の誕生の祝いであった冬至をキリストの誕生日と制定したことが、クリスマスの始まりでした。この時に決められた「ニカイア信条」こそが、現代残る全てのキリスト教の元祖という訳です。「愛」が侵略者から逃れる市民の「盾」から、侵略者が市民を統治するための「槍」へと変化した瞬間でした。

残された問題点

大きな問題は、キリスト教が完全な新興宗教ではなくユダヤ教から繋がっており、自らが正当なユダヤ教だとしていた点です。あくまでイエスはダビデの子であるということになっていますし、処刑場所もエルサレムですから聖地はエルサレムとなっています。しかし、最終的にローマ帝国の国教となったことから、ローマを中心にヨーロッパで権威を保持する必要があり教団の主権もローマに移動していましたが、ここにはかなりの無理がありました。ローマ帝国はイエスを処刑したのに、遠方のエルサレムが聖地であるのに、ローマ帝国の国教としてローマの考えを中心に作られた聖典には多くの矛盾が含まれ、学者らが聖典を真剣に分析すればするほど、内容に齟齬があることが明らかになっていったのです。

これに目を付けたのが、ローマの支配が届かないエルサレム以東のアラブで起きたイスラム教です。「旧約聖書」も「新約聖書」も、実際には政治的に都合よく改竄されちゃっていませんか?というのがイスラム教の主張です。イスラム教もユダヤ教の正統な後継宗教だとしている点で同じくユダヤ教の正統な後継宗教として立場を持っているキリスト教の分派と言っても過言ではありません。「旧約聖書」のダビデも「新約聖書」のイエスも、ムハンマドの「コーラン」には、正統な預言者として登場し、尊敬されています。しかし、ムハンマドは、暴力で世界を蹂躙し、略奪を繰り返し、世界を支配し「コーラン」という真聖典を押し付けるようになりました。それらのイスラム教国では、コーラン侮辱や偶像崇拝、婚前交渉などは現在でも厳しく取り締まられ、死刑などの極刑をもって暴力的支配を維持したままの宗教的圧政が続いています。こういった非人道的なやり方は、世界遺産の仏像を爆破したり、テロリストに代表される原理主義者なんかが生まれやすい温床となってしまいます。この問題は、1500年経った現代にもその影を落とし続けています。

民主制?君主制?

イスラム教が高く崇拝されている大きな要因に聖典である「コーラン」そのものが、文学的に美しいという点があります。世界を見渡せば、偶像にあたる絵画や彫刻以外にも、ベートーヴェンの第九や、ショパンのノクターンも、「コーラン」と同じく美しいと言えますし、人間が作ったとは思えない美しい文学は、「コーラン」だけだとは限りません。「旧約聖書」や「新約聖書」もその原型は美しかったはずですしホンモノだったはずです。ムハンマドの「改竄された聖書が純粋じゃない」という考え方は理解できますし、彼が歴史に名を残した天才なのは間違いありません。ただ、他宗教を非難し、自らの純粋さを主張するのは、極めて個人主義的な考え方です。集団社会の統治において、個人主義的な独裁的支配政治が良いのか、それとも集団主義的な民主主義政治が良いのか、まだ、結論が出ていません。イスラム教とキリスト教の対立は、最終的に、政治問題に発展し、民主制か君主制かという永遠に答えの出なそうな問いに発展してしまっているのです。

クリスマスは平和を祈る日

しかし、原点に戻ってみるとイエスの目指した理想は、民主制とか君主制とか政治の話ではなく、あくまで、一般人に対して争わないで従属し、感情的にならず、話し合いで和解していく柔軟性を全ての人が持つということだったのです。クリスマスは、本来のイエスの誕生日ですらありません。ただ、概念として宗教を超えて人々が平和となることを祈る日となってくれれば良いのです。イスラム教徒が9割を超えるインドネシアやアラブ諸国でも、はたまた共産党の中国や無宗教化している日本でも、12月25日が近づけば、イルミネーションで照らされ、クリスマスツリーで溢れ、プレゼントを選ぶ人々で賑わいます。もちろん、経済的な恵みをもたらしてくれることも、世界平和への一歩ですし、せめて年末年始は厳かに静かにそして豊かな心で、世界平和を感じられる時期となってくれれば良いわけです。恋人がいなくても仕事で忙しくても貧しくても死ぬほど暇でも、この時間、全世界は一つになるという感覚を共有するきっかけとなることが、イエスの望んだ本当の理想だったのではないでしょうか?そうなることで、全人類が一人でも多く幸せになると素直に感じるのは、私だけではないはずです。

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