THIS IS X’MAS イエスの真の物語

イエスの死後

イエスがキリストだと証明するために、イエスの復活神話が弟子達によって地下化した教団で広められていき、信者は増え続けました。ペトロの兄だった弟子のヤコブは、首都エルサレムでの宣教が目立ち、イエスがキリストであるという虚偽を流布した罪でヘロデ・アグリッパ王に処刑されます。これは、イエスの死後10数年後の44年のことでした。続いて、イエスをキリストだという人々が残っているとして、調査を命じられたパリサイ派のパウロがペトロ、ヨハネら幹部を逮捕し、尋問しました。厳しい拷問の末の処刑を免れないと判断したペトロやヨハネは、希望を繋ぐ最後の作戦として、全てを正直に暴露することを選んだのではないかと私は推測しています。この時代に、パリサイ派という伝統的ユダヤ教の教義を守り且つ重要なポジションにいるパウロが、イエスがキリストだという話を信じることは不可能だったはずです。これは即ち、オーム真理教の残党を逮捕した刑事が尋問中に、オーム真理教に入信し逃亡を図るのと同じことで、とても考えられません。しかし、逮捕された囚人達が、処刑すらイエスによる自作自演であったことも含め、全てを暴露し、イエスの本当の目的が、真の全人類の救済だったことを打ち明けたとしたら、ワンチャン、パウロが彼らの話を信用した可能性は考えられます。

パウロ書簡

いずれにせよ、パウロは敵対するパリサイ派の組織の異端取締官だったにも関わらず、イエスの世界を救おうとした熱い志しに心を打たれ、残された弟子達の献身的な活動に賛同し、彼らを秘密裏に脱獄させ、「イエス=キリスト」であったことが紛れもない事実だったと周りに吹聴していきます。パウロは口伝だけでなく様々な書簡も残し、これが、イエスの神聖さを強調するテキストとして、現在プロテスタントでは聖典として最重要視されています。パウロの書簡では、他の福音書よりも強く、イエスの復活が肉体を伴ったものであり、イメージや幻覚ではないことを強調してる内容となっています。実際には、パウロは最後の晩餐にも、イエスの処刑や復活にも立ち会っていませんので、自らの目で見たわけではありません。故に、よりそのことを強調することに罪悪感がなかったのかもしれません。そして、パリサイ派の人間がその事実を保証することで、より多くの人が救えると考えたのかもしれません。

パウロの処刑

しかし、極端なメシア思想に走り、拡散を続けるパウロもついには当局に捕まり、獄中生活を送る事になります。牢獄内で書かれたとされる書簡も残されています。しかし、残念ながら西暦60年には、パウロも志半ばにして処刑されてしまいます。それでも、イスラエルの地以外にも宣教を広め、多くの書簡を残したパウロの功績は、事実上のキリスト教創始者と言えるほどの重大なものでした。パウロを慕った医師であるルカは、医師としての社会的に優位な立場と経済力を使い、パウロの意志を受け継いでいきます。

エルサレム陥落

ユダヤ人がローマに刃向かった理由は、信仰や考え方の違いからだったと言われています。特にローマやヘレニズム主義に人気があった「人間の裸の彫刻」や「人間同士の殺しを含む剣闘士」が倫理的に不道徳で悪だと考えていたのです。これは、イエスを含むナザレ派でも、同じ考えでしたが、それでも、ローマに歯向かうのではなく、もし間違っているのであれば、そのうち神が裁いてくれるわけで、無理に反抗すれば、全員殺されるから得策じゃないと訴えていたのです。ですが、結果、イエスの教えは浸透せず、その志を受け継いだ人々は処刑され、無謀にもローマに刃向かったユダヤ人達は100万人という規模で虐殺されてしまいました。エルサレムを包囲したローマ軍は、徹底的に兵糧攻めを行い、外からの援助攻撃もことごとく撃破し、内部の戦力が充分弱まったと判断したのちに、火を放ち建設されたばかりのローマより美しいと評判だったエルサレム神殿を徹底的に破壊しつくしました。

帝国の侵略から身を守る「愛」

ローマ帝国では、人気取りのためには手段を選ばず侵略を繰り返し、武力で頂点に君臨した皇帝を主神として崇め、市民は大量の富をもたらす凱旋皇帝に熱狂していました。剣闘士も人間の闘争本能を悪戯に刺激し精神を興奮させる絶大な人気を誇るエンターテイメントでした。カエサルやナポレオンでの解説を見る限り、皇帝には皇帝なりの哲学があり、人民のための正義を貫いています。法律を整備しインフラを整え治安を守り生活を豊にしてきたのは、やはり皇帝たちの献身によるところが大きく、英雄の登場は現代でも期待されるところです。

しかし、イエスは「権威」とか「宗教」とかはまやかしで、みんな同じ人間だから、戦争に強い将軍だから「神」とか、そういうことではないし、法律を守ろうと正義を振りかざしている権力者たちも、社会秩序を守るものとして責務を果たしているだけです。ですから、そういった立法や政治、軍隊や警察とか秩序を守ることを職としない、一般の老若男女が恐ろしい侵略と略奪の対象にならないためには、そう言った権力者に対して侵略の理由を残さないようにするのが最善です。そのためには、イエスが説いた愛の宗教が最善策であることは疑いようのない事実です。

愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。

愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。

不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

この言葉は、あくまで理想であって、すべてを耐えるなんて、一般人の生活では無理ですし、それが愛だなんて有り得ないと思うのが普通です。誇らないと言いますが、すべてを耐えるなんて凄過ぎて、誇張としか思えません。高ぶらない、いらだたない、恨みをいだかない、すべてを耐える。こんなことを言う人間は、周りから見れば逆に誇っているように感じられます。しかし、この「愛」を理想としてイエスをキリストとして信じ続けることには。別の狙いがあったのです。

後のナザレ派は、困難に耐え、敵をも愛し、反抗しない派閥として成長していきます。帝国は確かに理不尽ですし、金持ちは不公平でズルいし、傲慢で横柄な態度をとって偉そうで、憎たらしいですが、ただひたすらその悔しさに耐え抜けば、かならず希望が見えてくると言い切ったイエスの言葉を、信じた人々は、実際に救われ生き延びました。

ヘロデの子孫でありローマ側に立場をとっていた、アグリッパ2世はパウロの発言に感心して、ナザレ派を庇護したそうです。エルサレム陥落後に、イエスをキリストだと信仰している人々はローマの虐殺から逃れる事ができたのです。

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