鬼道アーティストMico Mai

2022年8月28日にフォーシーズンズホテル大手町のソーシャルルームにて、直接的なアプローチ、原点回帰的な省プロセスでアートを作成する「鬼道アーティスト MICO MAI」のインタビュアーをいたしました。

interviewのYouTubeムービーでも触れていますが、MICO MAIというアーティストに触れ、理解していく上で「信仰」は切って切り離せない単語だと考えています。あらゆる宗教の原点とも評される「鬼道」という肩書きからも、そのことが伺えます。Lubiquitousでは、MICO MAIを理解していく上で改めて「信仰」とは何かについて、ニュートラルな視点で掘り下げていきます。

信仰について

超越的存在(Transcendental Being)(高次元=Higher dimensions、死後世界=Afterlife、神=God、霊=Spirit、他多数)などを認知し、それらが存在すると信じることを=信仰(Believe)と言います。

超越的存在を認知する方法は、主に以下の3つがあります。

  • 科学的(左脳的)観念的な認知=学問、著書、図表
  • 直感的(右脳的)感情的な認知=感動、悲壮、依存
  • 行動的(肉体的)実践的な認知=修行、霊能、芸術

があり、①→②→③の順により認知が強固なものになっていき、それらに積極的に関わっていくと強い信仰へ結びついていきます。信仰は精神の安定(あるいは不安定)を引き起こす強い効果があり、苦しみからの解放を願う人間の社会生活からは、切り離すことは非常に難しい、あるいは不可能と考えられています。特に家族など近い人との死別による悲しみにおいて、信仰は大きな役割を果たしているといえます。人類文明の黎明期から現代まで時代や地域に関わらず、親族が死者を送る際は、修行者や霊能者による儀式的な行いがあり、音楽などに癒されたり、超越的存在に頼ってきたことは紛れもない事実です。例えば日本において「仏壇の前でお線香をあげる」や「神社にお参りして手を合わせる」などは、本来なら一切、科学的根拠のない超自然的な信仰に基づいた行為であるにも関わらず、それを宗教心が強い人間と認識することはなく、社会に自然と溶け込んだ習慣と認識しています。

これらの信仰、あるいは信仰体験を体系的にまとめた教義や書物、あるいは信仰を促すための施設や偶像、行事や習慣などをそなえた社会集団が宗教(Religion)の定義だとすれば、家に仏壇があったり、神社にお参りすることも、自分では属していないと言っても、実態としては客観的に見て神仏習合の日本古来の伝統的宗教に属しているということになります。筆者は母がイタリア人で経験なローマ・カトリック教徒なため、カトリック教会の信徒として登録されており、世界の大聖堂や聖地を巡り、クリスマスには必ずミサに参列し讃美歌を歌い実子も洗礼を受けさせていますが、伊勢神宮や八坂神社(祇園)にも正式参拝し、父は浄土真宗のため家には仏壇もあり、お線香もあげますし、真言宗の高野山にも何度も通い崇敬しています。新宗教にもいくつか登録していますし、イスラム教のモスクを参拝したり、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」にも正式な巡礼スタイルで巡礼したこともあります。様々な宗教の経典を読んでいろいろと勉強もしてきました。そして、全ての宗教は結果的に全て同じ一つの似た様な結論に帰着すると解釈するができると考えるようになりました。私は今茶道を習っていますが、師は茶の湯を「全ての宗教の実践の場」と説いています。本来、宗教はいろいろあれど、それは手段であり、最終的な信仰は極めて個の内面的なものであり、そこに本質的な隔たりはないと思うのです。

竹生島にて photo by Hiro Ferrari

現代社会における信仰の喪失

信仰というと、人によってさまざまだと思いますが、例えば幼少期から積極的に親や宗教団体に関わる教育機関などによってもたらされる場合、宗教2世に代表されるように厳格なルールや儀式の強要によって、一般的な学校や社会と適合しにくくなります。その関係で2世は信仰から離れていくケースが多く、現代において自由意志を持ったまま、特定の宗教で活動し信仰を貫くのは極めて困難な時代になってきました。この流れは、日本だけでなく西洋でも強く、伝統的な宗教に対して熱心に活動を行う信者の数は急激に減少しており、2050年までには人類の70%が無宗教(神を信じない)になるという予測をしている研究機関もあります。

信仰が希薄な青年に新宗教が近づき、金銭の要求などの不当な契約を強要される事件などが大々的に報道されれば、さらに信仰というものに対する警戒心は強さを増す一方です。こういった現代社会において、知らないうちに宗教に対して無条件に嫌悪や不信感を持っている人が多いのではないでしょうか?

しかし、音楽や絵画などの芸術のルーツを辿っていくと、ほとんどのものが信仰とは切っても切り離せないことがよくわかります。

自我や心、思いなどを自然科学的な計算で数値化したり、帰納法によって存在の証明をするのは不可能です。美しい音楽や舞台芸術、あるいは文学など人間の心に訴えかけてくる芸術的表現において、何かしらの超越的存在へのアクセス抜きにして完成させたり、成功していくことは逆に困難ではないでしょうか?

例えば、宇多田ヒカルは、以下の様な言葉を記しています。

「メロディーは、誰かの心の原風景。 懐かしい場所からのメッセージ。

リズムは、死へ向かう生命の行進の音。

歌は祈り、願い、誓い。

音楽は、慈悲。」

— 宇多田ヒカル、「点 -ten-」[242](2009年) (wikibediaから転用)

当時15才でデビューした宇多田ヒカルは、その前後で日本の音楽シーンを180度変えてしまうほどの影響を与えましたが、彼女もまた、超越的存在へアクセスし、音楽を作ったことが伺えます。

信仰とは、宗教的儀式に参列したり、形式的な行いや、お布施などに頼るのではなく、本来は内面へ入り込み超越的存在にアクセスし、心の原風景、死、生命、祈り、願い、誓い、慈悲なる非科学的なものに触れ、感じ、そして表現することなのではないでしょうか?

その手段として、宗教をうまく利用するというのが、本来のあるべき姿なのかもしれません。そして、2050年には、宗教は特定のものを選択するのではなく自由に好みで都度選んでいけるものであり、そして、いかなる宗教にも属さないからといって、「神を信じていない」と自らを信仰から遠ざける必要はないのではないだろうか?と思っています。

「弁財天」 竹生島 宝厳寺 奉納作品 (Black Light) by MICO MAI

MICO MAIの「鬼道」について

これらのことを踏まえ、インタビューを通して見えてくるMICO MAIの「鬼道」について改めて考えてみましょう。「鬼道」とは、古代中国「三国志」に記録される魏志倭人伝に登場する西暦220年頃に卑弥呼が邪馬台国を統治するのに利用していたという魔術あるいは、占いといった非科学的、非学問的で、根拠に乏しい、本来ならいわば「怪しい、うさんくさい」と思われても仕方のないもので、あまり注目されてこなかったものです。

しかし、この「鬼道」が、全ての宗教の根源であり、プリミティブで原点回帰的なものであるという文脈で再消化し、アートクリエイションにおける省プロセスの正当化に利用すると途端に「新しい、センセーショナル」と思えてくるのは、不思議な感覚です。実際、多くのファッションシーンやコンテンポラリーアートシーン、新進気鋭のメディアアートなどでも、こう言った古代における民族的習慣や根拠に乏しい超越的存在への直接的アクセスなど、学問的、科学的プロセスを無視したものが、注目を集めつつあり再評価されてきているのが傾向として見てとれます。

MICO MAIの作品は先を行きすぎている感も否めないですが、これからの作品も進化の予感があり、目が話せないアーティストの一人だと感じています。

「弁財天」 竹生島 宝厳寺 奉納作品 (Day Light) by MICO MAI

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