天皇の真実 日本のルーツに迫る

旧石器時代と縄文時代

神社、神道のルーツは、旧石器時代にまで遡る

日本人のルーツは父系遺伝子の追跡によると世界的に稀なハログループDに属し、7万年前に分岐した特殊な遺伝子であり、現在では日本以外では、チベット高原とアドマント諸島の僻地に残るのみの単独グループです。日本列島は、海面上昇により約11,600年前に大陸から切り離され、海面上昇の中で独自の民族として文化が形成され、約3000年前の弥生時代に入るまで、大陸とはほとんど接点がなかったとされています。この隔離された8000年間を歴史学的に縄文時代と分類されており、その時代における日本での農耕の証拠はほとんど残っていません。地理学的にも農耕できるスペースが少なく、おそらく始めたとしてもすぐに洪水などで水没し長続きしなかったと推測されます。そんな中においても農耕を主としない漁村においても組織として、役割分担と階級制度があったと考えられ、当時から現代に通じる神道的な考えや神社に似た構造の神殿もあったと推測される証拠が東北や北海道から出土しています。

なお、神道は、現代でこそ「宗教」として分類されていますが、一般的な宗教とは大きく異なる点が多いです。神道には開祖も経典もなく具体的な教えもなく、宣教活動もありません。唯一、宗教らしさを感じるのは祭事と祈祷のみです。縄文時代における祭事や祈祷は村落の生活を守る目的で行われた原始的、民族的習慣に過ぎず、国家として大きくなってから様々なものを内包し、宗教へと進化していったというルーツを持っており、そのルーツを大切に維持している点において他の大陸宗教とは明らかに異なっていると言えます。

ランドマーク起源の神道

御神体としての森羅万象 山、岩、海、木、土など

500人規模の村落を守るために必要なもとして、まずランドマークが上げられます。日本は山が多く森も深く、海上も荒れやすいため、家族単位で狩猟生活を営んでいた旧石器時代から遭難が相次いでいたことは用意に想像させられます。遭難を避けるためには、ランドマークが必要であり、山に名前を付け崇拝し立ち入り禁止にしたり、大きな木や目立つ岩などに記しをつけ、それらの位置を記憶するためにそれらを中心に火を起こしたりの祭事を行う習慣が生まれたと考えるのが自然です。また、天災に対して祈りを捧げ鎮めようとする人間の行動は世界的に共通するものであり、自然崇拝は人間社会の構築と並行して発展した基本的な感覚と考えられます。これらのランドマークに対する崇拝の習慣のルーツは旧石器時代まで遡ることができると考えられ、大陸においては早々に廃れた習慣だったのに対して、古代日本人(縄文人)のみが大切に保持し続けた結果、特有の習慣となったと推測できます。縄文時代も最盛期を迎えるころには、高床式倉庫の跡が出現しはじめます。農耕との関連ははっきりしませんが、この頃には生活の安定を計るために保存食が作られ、様々な被害から食物を守るために高床式が採用されました。正確な管理と盗難防止の観点から倉庫は神格化され、周囲に結界をはり境界線を引き、立ち入りを厳しく禁止する聖域として認識され、広く一般に教育が厳しく施されたと推測されます。これが、神社や境内のルーツになったと考えられています。

残された土器から推測するに、現代まで引き継がれている日本人の感性や几帳面さ、器用さは、この時代からすでに始まったと考えられます。

境内の裏に住む人々のことは内裏(だいり)と称され、「やしろ(社)」を守る「みやのつかさ(宮司)」や「みやのこ=みこ(巫女)」が登場しました。推測ですが、つかさやみこが一般の民と接点をもつことによる買収や汚職を恐れ、宮家は一般人との接点を減らしていき、祭事にのみ姿を表す神秘的な存在へとなっていたと思います。この時代に勾玉が作られ、牙や胎児の形状に似ていることから、狩猟時代から続く(勲章として)狩猟の成果を表すものと、生命の誕生などを示す(神秘性)を表すものとして、だいりの象徴となっていったと考えられます。三種の神器における勾玉は、縄文時代ルーツであり、神器の中で最も古いものです。

なお、縄文人の人口のピークは約5000年前、26万人とされていますが、その後、徐々に衰退し晩期3000年前には8万人まで減り絶滅寸前に追い込まれていました。同時期、中国ではすでに、2万人の人口を抱える首都を持つ中央集権の都市国家(夏)が存在し、その人口は百万人に達したとされることを考えると、当時の日本は、大陸から比較するとかなり少数民族だったことがわかります。

弥生時代と古墳時代

中国から輸入された暦、農耕、戦争

中国において夏王朝(3000年前)が成立する頃になると、王朝からの司令により新天地や珍しいものを求めて大陸から海を渡って日本まで行くための予算や技術が、国家予算として割けるようになったと考えられ、まとまった量の中国人が日本にやってきました。この期間約3000年前〜2000年前にかけて、日本では農耕が盛んになりました。農耕では太陽観測が必要となり、春夏秋冬の節目を明確に示す暦が必要となり、南北東西を正確に図りながら、柱を建てて影の重なりによって、春分や夏至などを観測するための設備が必要となっていきました。社は単なる倉庫ではなく、より正確な技術を要する天文学の知識も必要とする特別な建造物へと進化していきました。稲作の技術が安定し、世代を重ねていくと日本でも人口爆発が起きました。この1000年間で人口は約30倍になったとも推測されています。人口密度が増えていくと、集落の治安を守ために、神道の役割と権力は時代とともに増強されていったと考えられます。さらに、本格的に中国から中央集権的な文化や鉄製造技術、軍事的思考が輸入されると、日本の様子は一変します。北九州では早くも、西暦起源の2000年前ごろには、鏡や刀などがもたらされ、立派な陶器で作られた棺には鏡、刀、勾玉(三種の神器)が副葬品として埋葬されている証拠が発見されています。それまで比較的平和的だった内裏の存在は、徐々に権威の象徴となり、近隣村落との権力闘争に発展していき、遂に日本でも激しい戦乱の世が幕をあけたのです。この時代に埋葬された北九州の内裏が、最初の天皇的存在の祖の一つと考えることができます。代から逆算しても年代的にこの頃と一致します。一方で、瀬戸内海の各エリアや、出雲などを含め、中央の奈良湖周辺でも同じ様な内裏が存在し、権威を持ち始めたと考えられ、同盟や裏切りを繰り返しながら戦乱に参加したと考えられます。

瀬戸内海は西日本の貿易航路としても発展し、村落間の交流が活発だったと思われます。特に岡山、兵庫、大阪の近辺は稲作、漁業の両方が発展し安定していて豊だったことから、ある程度、人口が増え権力が一箇所に集中するようになると、中国から土木技術が伝わり、古墳の建造が始まりました。最古の古墳の証拠は奈良盆地の南部です。その後、全国的に古墳は増え続けます。この頃になって、ようやく日本列島に関する正確に執筆された記録文献が登場します。有名な「三国志」です。弥生時代はこの古墳と「三国志」の登場から、歴史学的に古墳時代と名前を変えます。西暦248年のことです。

古墳は不思議なところが多い文化です。古墳の痕跡は全国的に16万確認されていますが、実際には20万基以上あったと推定され、現代の神社の数に匹敵する数です。古墳時代400年間で約30代続いたとして、1代あたりの古墳数が約7000基。当時の日本の全人口が300〜400万人と推定されていることから、一人の長が治めていたのは平均すると500人程度で1平方キロの田畑で賄える小さな村落です。しかし、大阪の大仙古墳の規模となると必要な作業員は最低でも数十万人が必要で、かなり統治が大規模になったことが伺えます。とはいえ、全国統一が全ての国民に周知されたという状況だったかは、この古墳時代の間にははっきりとはしていません。そして、天皇という存在も日本国という呼び名もまだ誕生していませんでした。ただ、自然のランドマークを崇敬する原始神道から古墳という人工のランドマークと先祖や権威の崇拝、人間の神格化と大陸思想が広がったことには間違いありません。

※資料、中国の文献「三国志」

※古墳 全国に16万基ある (兵庫、岡山、鳥取、福岡、京都など、西日本に数が多い)

古墳時代のことについては、「宗書」に少し登場します。中国の宗では、日本を収める王を讃、珍、武などと記述しており、得にこの中で「武」が後に雄略天皇と称される21代天皇(ワカタケル)と同一人物とされており、実在がほぼ確定している最古の大王(おおきみ)です。同時に、史実としては、この頃は、まだ天皇という存在ではなかったことも確かなようです。26代には、後に継体天皇と呼ばれた人物(ヲホド)は実在の証拠がある最古の人物です。

天皇は、現代でもそうですが、この頃から死後に天皇の名前が付けられるのが、古代からの習わしなので、天皇かどうかに関しても後世から遡って、この人物が天皇だったと決めるわけです。広辞苑には、初代の神武天皇〜49代の光仁天皇までの諡号を選定したのは、同一人物で淡海三船(おうみのみふね)だと書かれています。彼は奈良時代末期の人間ですから、遡ってこのご先祖さまは天皇だったと決めたわけです。ローマ帝国をはじめとした西側諸国では余り無い文化で、現代では世界的にみても珍しい事です。この習慣のせいで日本の歴史は実態が掴みにくいのです。ローマの初代皇帝も、オクタヴィウス>オクタヴィアヌス>アウグストゥス>と名前が変わりながら出世していきますが、これでも、混乱してしまうのに、死後何百年とたって、実在していたかも定かじゃない人物にまで、名前を後から付けて天皇だとしてしまうのですから、もはや何が何だかさっぱり分かりません。

天武天皇が日本を作った

日本が朝廷として隋に大使を送った頃から、古墳時代は終了し飛鳥時代に突入します。ここから日本の豪族は徐々に中国から得た情報を元に国の統治を試みます。隋が滅亡し、唐の時代に入るとさらに遣唐使を送り、大陸思想はどんどんと膨らんでいきましたが、これに待ったをかけたのが大海人皇子(オオアマノオウジ)であり、後の天武天皇です。大海人皇子については、YouTubeで解説していますが、日本のルーツと言える多くのことを残した偉大な天皇です。まず、「日本国」という国号を中国に対して発表したこと、そして、自らを「天皇」と名乗ることで、中国に対して遜色のなに独立国家であることをアピールしました。同時に大陸思想に傾いていた日本で古代回帰とも呼べる高床式倉庫を崇拝する古神道の民族習慣を新嘗祭などと称して国家的な祭儀として定着させ、伊勢神宮の遷宮を20年おきにし続けるために宮大工職人や森林管理などを細かく決めサステナブルな神社経営を開始しました。それは1350年間続けられ、現代に至るまで日本のシンボルとして継続しています。伊勢神宮の遷宮には現代でも550億という巨万の富が必要ですが、税金を使わずに民間としてやっており、まさに世界に誇れる驚異的な現在進行形の国家的祭事と言えます。伊勢神宮の遷宮と天皇の存在は、日本人が中華民族の一部ではなく独立した民族と国家であることの証であり、中国の影響が限りなく少ない縄文から続く文化を大切に守り続けているわけです。もし、大海人皇子が仏教に傾倒し、古神道を捨ててしまっていたら、日本という国は存在しなかったと言っても過言ではありません。ナショナリズムを煽るのは時代的には古いですが、ここまで古い民族国家が現代も古代の祭事と文化を継続していることの重要性は、グローバリズムの重要性と天秤にかけられないほど稀有で日本人にしか守れない大切な事物ではないでしょうか?

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