ローマ教皇は、ローマ皇帝の忠実な継承者 権威=正義=神
ローマ・カトリックの教皇庁と枢機卿団及び信者の団体は、ローマ帝国でいうところの元老院と市民の関係と似ています。権威は人間にあるのではなく、教会という集団にあるという考え方に基づいており、人々は教会と契約することで信者となりますが、契約とはつまり、自由を差し出す代わりに安全を保証して貰うという交換契約です。これは、言うなれば人類が争いで滅亡しないための知恵というべき大切なものでした。SPQR(ローマの元老院と市民)が作ったのは、経済成長を促すことだけではなく、世界中の市民を支配化にすることで被支配者(自由を差し出した市民)の安全で豊かな生活を保障するという契約を結ばせたということです。カエサルによって、ローマは元老院の権威のもと、市民に熱狂的な人気を持つ皇帝を指名するという帝政とよばれる政治体制に落ち着きました。これが、コンスタンティヌス大帝に受け継がれ、ローマ・カトリック教会のベースとなっていきます。ローマ・カトリック教会には、200〜250人規模の枢機卿団による古代ローマ元老院に似た体制があり、教皇という単一の皇帝に似た存在を選出するという仕組みを古代ローマ帝国から継承して現代に至っています。スキャンダルや腐敗が目立った皇帝と違い、聖職者は身の潔白を守り、「神の名において」聖なる職に就くことによって、教皇は皇帝よりも神に近い存在であり、権威と正義の象徴として、全ての民の安全を保障する存在だったのです。7世紀にグレゴリオ教皇の時代にこの権威は、各部族国家の王家に布教され、さらに西欧社会において確実なものとなったとされています。
ローマ教皇庁は現代でいう国連的な役割
カトリック信者によるカトリック教会との契約は、宗教的なものだけではなく、人類が滅亡しないために必要な社会契約でもありました。ヨーロッパ全土の王家が教皇庁から等しく正式に認められることで、それぞれの国家の社会中枢である王家の権威が教会において1点に集約され、安全が保障されていたということです。現代に例えるなら、国連安保理と同じ契約です。国連に加盟している国民である限り、国連安保理により不当な侵略戦争などは簡単には起こせません。中世ヨーロッパにおけるローマ教皇庁は国連と同じ役割を担っていました。例えば初代フランク王のクローヴィスも、もとは、そもそも伝統的な古代ローマの人間ではありませんでしたが、生涯を通してローマ帝国化しました。クローヴィス1世は、ローマ属州の要職についていた家系で生まれますが、カトリックでもなく一夫多妻制の生活を送っていて、妻の影響でカトリックに改宗、その後自らの軍隊を引き連れ、ゴート族などを支配下に収める軍事的成功を収めると、ローマ皇帝からアウグストゥスの称号を貰い戴冠式を行いフランク王となったのです。歴史の教科書には、「西ローマ帝国は滅び、新たにフランク王国が誕生した」という様に書かれていますが、王からしても、市民からしても、フランク王国はローマ帝国の属州国家として教皇庁に正式に認められた国家であって、世界の頂点に君臨していた存在であるローマの権威は認められ続けていることを念頭に置く必要があります。
「コンスタンティヌスの寄進状」とカール大帝
800年ごろになるとイスラムの侵略が進みますが、西はカール大帝が、東はバシレイオス皇帝が現れ、イスラム勢力を押さえつけました。この頃になっても、引き続きコンスタンティヌス大帝の権威は大切なものとして、西でも東でも崇められ続けているままでした。教皇庁によって偽造された「コンスタンティヌスの寄進状」という偽書は、有名ですが、いかにローマの権威が、市民や王家にとって欠かすことのできない大切なものであったかを示す証拠でも有ります。(寄進状は、コンスタンティヌスが存命の時にすでにローマ教皇がローマ皇帝より権威が上であったことを、史実に反して証明した怪文書で、19世紀まで本物だとして信じられていました)。西のほぼ全土を統一したフランク王のカール大帝は、教皇庁の寄進状を確認し、それにのっとって戴冠式を行い、正式にローマ皇帝として認められました。こう言ったある種のトップ層による捏造された権威を利用することが、ヨーロッパの地中海世界の常識でしたし、代々受け継がれた支配層の処世術だったのです。これは、現代においても市民を熱狂させ一つにまとめる方法としてある程度、容認されている方法でもあると思います。その後、カール(フランス語でシャルル)の血族は、カロリング朝として続き、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどの原形を作っていきます。ヨーロッパの王朝はカールの血族であることが正当な王侯貴族としての証とみなされます。ルードヴィヒ(フランス語でルイ)はカール大帝の三男で、その後ルイ16世まで・・みなさんご存知の通りフランス王として君臨し続けました。ヨーロッパの歴史は、王侯貴族同士の政略結婚が盛んでしたから、親戚同士が作った同じローマ・カトリック国家同士による内乱のような状態がずっと続いてきました。元はといえば親戚ですからね・・・あまり、本気で戦いたくはないというのが本音だったと思います。ですから、他民族国家への侵略という様な、無差別な大量虐殺が行われたことはほとんどなかったと言われています。
東ローマ帝国がイスラム勢力から侵略され西に援助を依頼した
東のバシレイオス皇帝のあと、しばらく世襲が続くと皇帝腐敗によって弱体化し、その隙をついてまたもや、イスラム王朝に攻められ領土の大半を取られ、虫の息となりした。そんな状態となった東は、西に援助を求めるしかなくなってしまいました。長い年月の間で、文化は大きく変容し東と西は、決して仲がよかったわけではなく、教皇の権威と東の皇帝の権威のどっちが上かなどで対立が有りました。ただ、西にとってもキリストの聖地であるイスラエルが重要でしたし、東が権威を西の方が上だと認めることを条件であれば、西が東のために軍を編成することは断れません。そこで、仕方なくローマ教皇は、西ヨーロッパ各国から聖地イスラエル奪還を目指した連合軍を徴兵せざるを得ませんでした。ただ当時の教皇は軍隊の編成としてではなく、キリストの聖地を目指す巡礼者として集め、これが自衛権を持つ(実際には多額の予算を使って武器や戦車を持たせていたので事実上は軍隊でしたが)というのが正式な名目でしたので、当時は単に「巡礼者」と呼ばれていました。しかし、この巡礼者が各地で戦争を行い勝利を収め聖地を次々と奪還し制圧したため、後に十字軍と命名される様になりました。
十字軍のやり過ぎが結果的に教皇庁に影を落とした
軍隊の編成には、莫大な費用と多くの人命が関わりますので、十字軍の編成にかかる財政負担と人命負担の問題は、当然ながら教皇庁を大きく揺さぶることになります。カトリック教国家同士での小競り合いや内乱、権力の取り合いでは、その権威そのものが揺れ動くことは決してありませんでしたが、異教徒のイスラム教国家に対する侵略地奪還戦争となると、戦争にかかる莫大なコストは、どの国家が負担するのかが問題になりますし、それに見合うだけの莫大な収入(戦果)も必要になります。その収入は当然奪還地で略奪によって得る戦果がメインにならざるを得ません。お金を持っている各地の王侯貴族や豪族からすれば、教皇という絶対正義からの依頼というバックを元に投資感覚で、十字軍に参加を表明しました。しかし、略奪で得た収入は実際に軍隊を指揮するテンプル騎士団によってかなり操作されてしまい、ほとんどが不当に教皇庁に搾取されていました。もちろんこれは、教皇庁の権威を守るために当然必要な処置でしたが、戦地においてのそういった不平等は、命懸けで戦う兵士たちにとっては極めてデリケートな問題です。帝国を統べる教皇庁は、本来ならカエサルの様にビビらず、ケチらず兵士に寄り添い「教皇=神〜!」と兵士達に思わせなければならなかったのですが、どうも、ここに影が落ちるきっかけが生まれたようです。教皇庁は他民族との戦争とは無縁でしたから、兵士の扱いに不慣れだったため、テンプル騎士団に全て任せっきりになってしまい管理下に置けなかったのが特に痛かったと思います。テンプル騎士団は、その勇気と活躍に見合うだけの利権と報酬を思うがままにしようとし過ぎたのです。
ローマ教皇庁のアヴィニョン捕囚が教皇批判を生んだ
フランス王フィリペ4世は、権力を持ちすぎたテンプル騎士団を解散させるため、教皇を拉致、監禁し、強引にフランス王に従わせてしまいました。これが、有名な教皇のアヴィニョン捕囚です。これによって、ローマという都市は本格的に不可逆的に廃退し、廃墟化したと考えられています。同時にローマで皇帝の戴冠式を予定していたハインリッヒ7世は教皇不在のため残された枢機卿から戴冠されましたが、戴冠直後、反皇帝派に暗殺されてしまい、ローマ皇帝の権威もイマイチでした。この後、教皇は68年(1309-1377)に渡って全てフランス人から出る傀儡教皇となり、アヴィニョンに捕囚され続けました。それでもローマ教皇の権威は、名前としてはヨーロッパ全土に残り続けました。ただ、その実態がフランス王国に奪われ、ドイツ系神聖ローマ皇帝派、旧ローマ教皇派、新フランス王国派と争いは苛烈、内乱は激しさは増して行きます。この頃、ダンテは名著『神曲』を執筆しており、皇帝の正義と宗教的権威とについて深い考察をしていますが、これが高く評価され、後のルネサンスへと世界を方向づけるきっかけになったとも言われています。
100年戦争後、統治は絶対君主制に落ち着いた。
1337〜1453、フランスとイングランドでは、カール大帝の系譜を継ぐ者同士の言わば相続(骨肉)争いが発端で100年戦争へと入ります。この戦いで疲弊したフランスは、途中でローマ教皇のローマ変換を余儀なくされ、ローマ教皇庁は独立復権し、ある程度、ヨーロッパ全体に対しての権威を取り戻します。フランスとイングランドの王位継承権同士の長い争いは続きましたが、ジャンヌ・ダルクなどの英雄の活躍によりなんとなく落ち着いて、現在のヨーロッパの国境が徐々に姿を表し始めます。英語圏はヘンリー、フランス語圏はルイ、ドイツ語圏とスペイン語圈はハプスブルグ家とイタリア語圏以外は現在の言語圏ごとの支配者がはっきりとしてきました。この後も王家同士で喧嘩したり仲良くしたりを繰り返しますが、関係はそれなりに密接でした。ですので、考え方や文化はある程度違いながらも、根本的にはカトリックという一つ絶対的なものがあり、ローマ教皇庁も健在のままでした。ただし、一度、アヴィニョンに捕囚されたことでフランス王家の影響を強く受けたこの時代の教皇達は、結婚こそできないまでも愛人が多数いて、子どもをたくさん残し、教皇庁の権力的な座に自分の子どもを世襲させるという、本来の教皇としてはあるまじき不貞を働いていため徐々にカトリック教会内部から批判の声が相次ぎ、隠しきれなくなっていきます。
印刷機の発明とマスコミの出現によって教皇スキャンダルで炎上
ドイツにおけるバチカン出先機関の造幣局出身のグーテンベルクが活版印刷機を発明すると、それが普及したことによって様々な文章がこれまでよりも早く広く出回る時代がやってきました。これによって、新たな波がキリスト教世界を揺さぶる大事件が起きてしまいました。有名なルターが書いた教皇庁への批判は、当初教会の掲示板に張り出されただけで、それは当時のヨーロッパでは普通のことで、教会内部の政治的な問題に過ぎず、信者がそれに興味を持つことはなく、大きな影響はありませんでした。
しかし、その内容をルターではない、誰か(おそらくシオニスト系の啓蒙主義)が勝手に活版印刷機でビラを作成し、広い地域に渡って大量に撒き始めたことで、影響力が大きくなり始めたのです。結果的に教皇庁に必要以上に目をつけられたルターは破門にされてしまいました。言われのない濡れ衣を着せられ、不当な扱いを受けたルターは、逆に火がついてしまい、さらに過激な批判的書物を次々と活版印刷を使って増刷するという反撃に出てしまいました。教皇庁への批判やスキャンダルは一般人にまで広がり、取り返しのつかない状況が生み出されてしてしまったのです。最終的にヨーロッパ全土に様々な立場から多種多様な教皇庁への反発が一斉に爆発することとなり大炎上。ローマ教皇庁は自体を収集することができなくなってしまい、どんどん悪化し、ヨーロッパ世界は反教皇派(プロテスタント)と教皇派(カトリック)とに別れ、ついには殺し合いの戦争にまで発展してしまったのです。これを食い止めるべき組織が多数立ち上がる中には日本に到達したイエズス会もありました。同時に大航海時代が始まり、世界征服戦略も裏で動きはじめます。古代ローマの再生復活を願うルネサンス運動は主に教皇派主体で最盛期を迎えます。カール大帝系譜の王家全てに対して多大な影響力を及ぼした真の絶対的唯一の支配者であったローマ教皇庁、ダビデ、アレキサンダー、カエサル、カールの系譜を受け継ぐ、唯一神の代弁者との契約とその征服支配構造は、大量生産の紙によって希薄され、その本質的な価値を著しく下げてしまったのです。民衆も王家もローマ教皇の免罪符に対する購入価値は下がり、必ずしも人類の平和を担保するのがローマ教皇だけとは限らないと考え、心が離れていったのです。
プロテスタンティズムと資本主義
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、20世紀の名著代表として多くの国際的書評機関に認証されていますが、そこに非常に興味深い内容が書かれています。ローマ教皇の権威の庇護のもと、反発せずにカトリックの影響が強いまま暮らしているイタリアやスペイン、南仏など南ヨーロッパの住民は、時計に左右されることなく、日が出たら適当におしゃべりしながら働いて、飯食ったら昼寝して、夏休みは3ヶ月ぐらいとって、労働時間は短く、お金を稼ぐことはほどほどで、おおらかな人間として豊かに暮らしています。これは、反教皇派(プロテスタント)が出現するまでは、ヨーロッパ全土でずっと続けられた普通の生き方でした。教会に寄付し罪を告白すれば、全てが許され、天国に行けたわけですから、必要以上に仕事をする必要はなかったですし、お金を稼ぐという事は良い行いとは考えられていなかったのです。
しかし、教皇の権威を疑ったイギリスを中心とした北側諸国のプロテスタントは、「時は金なり!」と狂った様に働き始め、生産性を追求し、突如、暴利を貪る金の亡者に変貌したのです。なぜ、ローマの権威と縁を切ったことで、プロテスタントは、急激に金の亡者になったのでしょうか?
「労働する=地獄に落ちない」
ローマ教皇を疑うことは=免罪符を買っても天国に行けないと疑うことと同じです。そこで、代わりに、人々に奉仕する労働(その感謝の対価であるお金を稼ぐこと)が、地獄に落ちない唯一の方法だと考えるようになったというのが、ウェーバーの持論です。ここでポイントなのは、プロテスタントは、反教皇でありながらも、無宗教ではなくキリスト教は信じていたということなのです。つまり、教皇は死後の救済とは一切関係がないという考えに至ったものの、「最後の審判」については、伝統的に深く信じられていたのです。そして、死後地獄に行くのが怖くて、その恐怖から逃れるために死ぬほど労働することになったというこことが書かれています。それが、イギリス、アメリカの資本主義の原型を作りだしたというのがウェーバーの考えです。結構面白いですね。
私は、これの背後には、数千年に渡ってローマ帝国系の社会から迫害され続けてきたシオニストの関わりを直感しています。活版印刷を利用し反教皇派を煽り、彼らに「死後、裁きに会う」という恐怖支配を与え、苛烈な労働を強いて、生産性を高めた結果生まれた、新たな莫大な富は、どの王家のどのルートであっても、最終的にはシオニスト系の投資家や銀行家に集約されていった様な流れを見ることができます。シオニストには明確な目的と目標がありましたから、うまく、プロテスタンティズムを扇動できたのかもしれません。アメリカ合衆国建国の父、100ドル札の紙幣に描かれているベンジャミン・フランクリンは、科学者としても知られていますが、大きな功績としては、このプロテスタンティズムと資本主義を広め、「仕事は定時で!飲食し過ぎず!一心不乱に働く!」という、現代に繋がる資本主義世界を作り上げたとされています。
フランス革命=フランス王家の経済破綻による自滅
フランス革命というと、貴族との不平等に思っていた市民の不満感情が爆発したというイメージを持っている方が多いかもしれませんが、貴族と平民の不平等は、古代ローマからずっと続いていて、現代もなお形を変えて富裕層と貧困層として続いています。この構造は根本的に変わることがないことを平民も理解しています。ですから、貴族が豊かで平民に少しでもその還元がある限り、平民は一般的に爆発的な不満を持つということはほとんどありません。かりに不満があったとしても、規則側が豊である限り、圧倒的に経済力と軍事力に差があるわけで、それに対して反抗をしても無駄な死を遂げるだけなのは十分に理解されています。フランス革命とは、フランス貴族層のイギリスとの戦争による自滅という方が正しい表現です。ただ単に、フランスの特権階級であった王侯貴族がことの深刻さを理解できず、キャッシュフローを見誤ったに他なりません。王侯貴族たるもの、ある程度勉強して、それに見合うしっかりしたビジョンを持たねばなりませんでしたが、そのトップであったルイ14世とルイ15世は、小国イギリスの戦力を見誤り赤字の戦争に明け暮れ、ルイ16世の代でついに国庫が底を尽きていたのでした。経済的な破綻により王侯貴族は総崩れとなり、空白となった権力の座に粗暴な民衆が群がった事件です。
フランス王家が経済破綻したことによる欧州の大混乱
ヨーロッパでは、ブルボン王家も、ハプスブルグ王家(スペイン、オーストリア)も、結局全てローマ教皇庁の権威のもとに成り立つ、カトリシズムに基づく絶対君主制でしたが、このフランス王国が経済破綻をしたことがきっかけで民意の支持を得られ無くなってしまい、粗暴な民主主義による革命新政権が生まれました。この前例ができてしまったことで、フランス以外の王国における王侯貴族にも不安の波紋が広がりました。その混乱期を治めるには、どうしても新たな英雄の存在が必要だったのです。
古代ローマ系は、ヨーロッパにおける最高の血族
ナポレオンの本名はナブリオーネ・ブオナパルテ(イタリア語名)で、ローマ教皇庁の名門貴族の家系でした。ローマのその後については、コンスタンティヌス大帝で説明しましたが、5世紀〜20世紀まで1500年以上もヨーロッパの人々は、常にローマ教皇庁を最高権威として崇める一つの共同体でした。現在、国家こそ別れているもののEUという連合に落ち着いていることからも、そのことは証明されています。ヨーロッパ全土は、古代からずっと一つの世界線で生き延びている単一文明世界です。アレキサンダー>カエサル>アウグストゥス>コンスタンティヌス>カール大帝>という流れは、一つの線で繋がっている世界観であり、アレキサンダー〜現代におけるまで、内乱は多数あれども、特にフランスやイタリアなどの西欧州に関しては、中東イスラム圏や中華圏というローマ帝国民以外の民族による侵略や支配は結局最後まで一度もありませんでした。その最たる証拠が、現在も健在しているローマ帝国コンスタンティヌス大帝の遺産であるローマ教皇庁の存在です。現代でもローマ教皇庁は、ローマに独立国家として存在し、ある程度の権威を維持し続けています。ブオナパルテ家は、このローマ教皇庁の流れを汲む古い名門貴族であり、つまりカエサル>アウグストゥスの流れを組むヨーロッパにおける最高権威に近しい血族だったというわけです。
英雄の幼少期に悔しさ有り!
ボナパルトの生い立ちは、カエサルと同じく悔しさがある幼少期を送っていました。コルシカ独立運動家の父は祖国を裏切り、フランスに寝返って、見返りに貴族の称号をもらった移民であり、元々優秀なフランス貴族と比較すると貧しく、いじめられていた過去を持っていました。とわいえ、貴族と並ぶしっかりとした教育(と言っても軍の士官学校)がされていて、読書家であり、文学活動をしていたこともカエサルと共通する部分でもあります。アレキサンダーやカエサルといった『英雄伝』はもちろん熟読していましたし、さらに、当時、新進気鋭の人気作家であったルソーの著作である『社会契約論』も読んでいました。その『社会契約論』の中で、「社会契約は、国民の共通の社会的利益を重視している前提の上で民意の支持があることが重要で、それが君主制でも共和制でも貴族制でも政治形態は、どれでも良い」ということを書かれていています。これは、ナポレオンにとって納得のいく論説だったはずです。少年が読むにはかなり難解な本だと思うので若くして成熟した思想の持ち主であり、世界の支配者としての渇望がすでに芽生えていた事が想像できます。
ナポレオンは、空席を奪い、いきなり英雄となった
フランス革命には無関心でありながら、広大な野望を持つ無謀な少年だったナポレオンは、革命を起こせざるを得なくなった国民議会から推薦され、24歳にして、いきなり英雄として祭り上げられてしまいます。大砲を使った軍事的才能は、実践でどんどん開花し、メキメキと出世し、様々な偶然が重なって、ナポレオンは一気に副官クラスへと這い上がり、フランス革命軍に対抗する反革命派を鎮圧し、市民の英雄色が濃くなっていきます。
27歳でイタリア遠征に行き、連戦連勝するとオーストリアと和平条約を締結し、実験を握っていきます。エジプトの遠征でもピラミッドの戦いで勝利し、調子にのりますが、実際にはここで、イギリス海軍に海戦で負けてしまい、孤立してしまいます。ナポレオンのキャリアは一旦ここで終わってしまいました。