イエズス会1534年頃設立(ルネサンス絶頂期)本拠地ローマ
修道会は服従、清貧を良しとし、教皇への絶対的服従を誓いながらも、その生活や行動そのもので、教皇に対する批判的性質を内包するヨーロッパ中世における典型的な集団。
プロテスタントが台頭したことで、カトリック教会は徐々に勢力を失い始め、特に教皇庁の腐敗を憂いた有志があつまり、大学と高等教育を通して、ローマ・カトリックを中心とした世界を取り戻そうとして設立された。設立からわずか30年で3大陸に74の大学を設立した。その絶大な影響力と権力は18世紀に入ると世界各地の植民地におけるスペイン・フランス・イタリアなどの国家権力と衝突し、急激に弾圧が進み1773年にはついに教皇からも禁止され解散命令が出て全員が逮捕され監獄にいれられる。同宗教内でありながら大迫害が実施された。しかし、その後世界中で多くの遺産を残したエイズス会は、多くの人々から復興を望まれ、各国家権力も原住民の奴隷支配を完遂し、目的を終えたこともあり、1814年に復活を遂げた。その活動は1950年にピークを迎え、現代でも100カ国以上200以上の大学があり、日本では上智大学がそれにあたる。世界で活躍するイエズス会系の卒業生は1千万人近いとされ、その民族や国籍の多様性はまさに世界の縮図でありその意思も思想も方向性も多種多様であり、名実ともに世界最大の超国際的知的集団として多くの国のリーダーシップに携わり活躍している。基本的に高い教養と芸術や音楽への深い理解があり、礼節をわきまえる気品のある人格者が多いのが特徴。家族の結束、政治腐敗の撤廃、自由平等平和、貧困への理解や救済など、美しい装飾や音楽を使い、子どもへのプレゼント、恋人たちへのロマンス、またクリスマス、イースターを中心としたカトリック的世界観を利用した幸せなイメージを作り出し、現代社会に対する絶大な影響力を与え続けている。現在のローマ・フランシスコ教皇がイエズス会出身として選出されたのは、度重なるスキャンダルによりバチカンのイメージ回復が急務の課題となったからと推測されている。これにより、富を集約させた貴族による帝国支配的だったバチカンも、少しは貧困救済的に変わっていくことが期待されている。イエズス会の宣教跡は、見た目だけでは、さほど価値を感じられずとも、その意義深さから、ほとんどが例外なくユネスコ世界遺産に登録されている。特に南米ブラジルとアルゼンチンをまたぐサン・イグナシオ・ミニが有名で、パラグアイでは唯一の世界遺産がイエズス会伝導跡、インドのゴア、中国のマカオ、フィリピンのマニラなど、イエズス会が残したユネスコ世界文化遺産には枚挙にいとまがない。日本でも長崎の教会群がイエズス会の残した遺構として世界文化遺産に登録されている。創設者は、聖イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルであり上智大学に併設されるイグナチオ教会もそれに由来する。(私の両親が結婚式をあげた教会でもあります。)
ザビエルが来日したころは、混乱の極み
天皇を中心とした日本の国政は長い間、多少のアップダウンはあるにせよ、それなりに平安を続けてきていたが、ついに12世紀には、全国規模の大内乱が勃発する。これ以降、数百年に渡り、日本は暗黒の時代に入ります。結果的には源氏が勝つこになって鎌倉幕府を作るも、源氏は何代にも渡って暗殺され、朝廷から倒幕を狙われ続け、朝廷と幕府の対立が生まれ、地方と集権の溝も埋まらないまま、混沌とした時代は続いた。朝廷は幕府に敗れ実質的な権力を失い貧窮するが、幕府はその天皇の名前と権力をそのまま引き続き利用することを選び、存続させることとした。それが、現代まで続く、実権のないシンボルとしての天皇である。大陸世界では、勝者が徹底的に敗者を滅ぼし、自ら新たな朝廷を築くというのが常識なので、外国からすれば、この島国の内乱の最終的な収まり方は複雑で、政治形態が複数重なっていて理解が難しい。極め付けは「応仁の乱」(1476)で、これで、日本の絶対服従の権威の象徴でもあった天皇が鎮座する「都」が陥落し、焼け野原と化してし、天皇は足利将軍に捕囚される。地方もそれぞれ強大な権力が残ったままで、全国的に統一されて統治がされているのかも分かりにくいものとなり、戦乱の世が続いた時代だった。キリスト教宣教師のフランシコ・ザビエルが来日したのは、ちょうどこの戦乱期でも苛烈を極めていた頃だった。フランシスコ・ザビエル(シャヴィエール)は1549年に日本に到着。ロドリゲスは、その28年後に到着した。
ジュリアン・ロドリゲス通事(通称:ツーヅ)
1561年 ポルトガルの田舎で生まれる
1568年 7歳で故郷を立つ
1577年 16歳で日本に到着
1581年 20歳で初めて教育を受け、将軍付きの通訳として活躍する
1587年 秀吉によるキリスト教宣教師・追放令が出るが引き続き日本に残る
1601年 教皇より誓願許可を得る。家康の貿易代理人の地位を得る。
1610年 追放(日本に33年間滞在)
1634年 73歳 マカオにて没
ロドリゲスは正確さを追求した
ロドリゲス通事は、それまでの日本に関する記述が事実でないことが多いことを嘆き、真実だけに徹底的に拘っていることを、本書になんどとなく書いている点から、曖昧なものや、自信がないもの、自分の目で確かめなかったものは、なるべく排除して、できる限り正確さを最優先していた意気込みが感じられる。しかし、実際の本書は、校閲されておらず、出版に至らなかったため、編集も編纂もされておらず、ケアレスミスだらけで、年号やら細かい部分、固有名詞などに誤りが多く、翻訳はかなり苦労したと思われ、本書では数多くの注釈でその間違いが指摘されている。しかし、ロドリゲスが追求した正確さというのは、こういった細かい年号や固有名詞のデータによる正確さではなく、根本的な日本の精神やバックグラウンドに対する考え方などに対する正確さを意味しており、表面上に見聞きした事実だけを淡々と書き綴るのではなく、建前の裏に隠された本音や、歴史の経緯から分析した結果導き出される、本当の真実なのであって、そのことに対する深い理解をベースにしているという点は注目に値する。ロドリゲスの文章には終始、日本の建築美、様式美、振る舞い、料理の完成度、清潔さ、専門家された職人の仕事に触れては、そのハイレベル過ぎる匠の技への感嘆と尊敬の念が綴られている。一方で京都の東経などの計算は当初残されていた地図が全てテキトーに東経180度とされていた時代において、ロドリゲスだけが寸分狂わない正確な東経を記していることは驚きであり、ここにも、それまで日本を単に極東の辺境の取るに足らない国家と考えていた他の西洋人に比べ日本への深い敬意を感じられる。
外国人ならではの視点。海外と日本の大きな違い。
西洋との大きな違いとして、日本人は健康志向が高く長寿、食品が少量でも滋養が高いという認識で、老人は70を過ぎても活力がある。津波や地震などの天変地異が多く、豪雪地帯などもあることが記されている。女性が椿油を髪に塗り黒髪を美徳としていること。梅雨。城壁や石垣意外の全ての建築が木造で、ヒノキやケヤキなどが重宝されているが、枯渇が始まっている。全土に優れた水や泉がある。名水は茶の湯で使われる。上質な魚が数多くいる。蹄鉄なしで歩く頑健な荷馬がいる。犬は狩猟のため、牛は畑を耕すため飼われ、鶏や家鴨も飼われているたが、家畜はそれまで食用とはされていなかったが、外人の影響で少しずつ家畜も食べるようになっていったが、日本では食用の肉は基本的に野生の猪や鹿、野鴨など狩猟した生き物だけだった。鶴や白鳥が空を覆い尽くしたらしく、壮観だったのだとか。そして、鶴や白鳥も食用として狩猟されていた。特に鶴は超高級食材で、茶の湯の席では必ず出たそう。中国の影響で東西南北に関連する風水的な配置、上座、下座などを重んじる。木造の建築技術は、誰の目から見ても圧倒的に群を抜いて世界一で、近しいものすら見たことないといえるほど優秀だった。日本では大富豪の宮殿から庶民の家に至るまで、全国の家屋に使われる材料や間取りは全て統一された寸法に規格化され、出来上がった家屋には統一された厚さと正確な二倍正方形とに規格化された畳に美しい縁飾りがされ、寸分狂わずに、ぴったり嵌るように仕上がる。障子や襖などその幅や大きさも全て同寸で規格化されており、それを供給する職人の仕事の正確さは目を見張るものであり、細部に至るまで細心の注意が向けられ、ディテールにいたるまで完璧に美しい。建築はメンテナンス性が高く、地震にも強く、移築も簡単で様々な意味でサステナブルである。木材にも深い造詣と知識があり、その方位に正確な配置や向きは占い的な意味だけでなく、気候や風土に最適化された、機能的なものでもあった。室内は極めて清潔に保たれていて、土足禁止となっており、客人やそのお供の様々な生理的な事情に対して深い配慮がされている。どの家にも美しい庭園が築かれ、自然を模写した小宇宙とも言える美しさは別格で神聖なもの。その手入れをする職人の技量も卓越している。能楽はかなりの完成度があり、舞台、橋掛り、鏡の間、など建築は全て神聖で、卓越した演技を疲労した演者には、敬意を払い神聖な儀式にのっとってかなり上等な絹織物や装束が奉納される。檜の風呂などの浴槽に関しても、清潔さと荘厳さにおいて世界一優れている。
戦国時代の日本の特殊な精神
日本人の当時の死生観は、世界基準からすれば極めて異質だった。ロドリゲスからすれば、日本人は世界最強の戦闘民族に間違いないと確信していた。それは、特に死に対しての恐怖がなく、無礼や処刑はかならず切腹を用い、それた勇敢で名誉あることだと考えられていたからである。戦は全てが命懸けで、戦場から逃げ出すことはまずない。残酷な拷問には屈しない。死刑囚の死体を払い下げて貰い何度もそれを切り刻み刀の切れ味を確かめる。幼少の頃から訓練され、生身の身体を切るということを覚えていて、人を切ることに躊躇がない。外国人には理解できない表裏、本音と立前があり、立前は大体偽りであるが、人を騙すための偽りではないというややこしさがある。本音は特別に仲の良い友人には明かすが、基本的には明かさない。そして、本音よりも奥に腹がありそれは自分自身だけのためにある。優れた様々な娯楽(相撲、酒宴、能、狂言)があり、多くの時間をそれに費やす。鬱病にかかりやすく多くの人が自殺により命を落とす。
日本の厳格な世襲制度と天皇・公家・武家
天皇家、公家、は極めて厳格な世襲となっており、血が繋がっていない家のものが、宮内で特権を得ることはない。これは、ロイヤルファミリーと似ているが、日本ではさらに、農民の子は、農民。職人の子は、職人。役者の子は、役者。何台にも渡って、親から子へ同じ職業が受け継がれることにも、独特の特徴があり世襲はほぼ全てのジャンルで一般的となっている。子の自由意思がほとんど尊重されることはなく、決して他の職につくことができないというほど、厳しい傾向がある。
応仁の乱・後(京都という町のイメージ)
ロドリゲスが来日した当時、京都は、焼け野原で二条城はぼろぼろで、守衛もいなく、天皇や公家は極めて貧しい生活で、どうなってんだろうって覗きたくて入ろうとしても咎められることなく、勝手に中庭に入れてしまうほど荒廃していたという。外国人に対して、日本の都や天皇の暮らしは元々こんなに寂れていたわけでなく、素晴らしかったんだということを見せしめるための、外交的戦略として、府の予算を注ぎ込んで、復活し品位のある生活を取り戻すようにした。秀吉がは、自分の邸宅として京都に聚楽亭を建設をし、天皇の行幸を迎え、それにポルトガル人を大勢招き馬に乗せ御一行に参列させたと記録にある。それに合わせて京都の街の美化が進んでいったと書かれている。この時に道路は広くされ、多くの近隣の仏教寺院が都市の景観アップのために移築された。その後、秀吉が伏見に引っ越して京都の間に家屋が並び、その後、甥っ子の秀次を切腹させ、聚楽亭を徹底的に壊し更地にし、さらに家屋がその跡地に建てられたことで、京都は現代のサイズにまで繁栄した。殊更、平安時代まで遡る古い歴史を持っていることを自負する京都だが、実際には戦国時代末期にはほぼ壊滅状態で廃墟に近かった。事実、京都に現存する最古の建造物は千本釈迦堂だが、鎌倉時代末期の建造とそれほど古くもなく、対して注目もされていない。現存する京都の街並みで知られている建造物は、ほぼ全て太閤秀吉以降の建造物であり、それは、海外へ向けてのアピールのために後からとってつけられたものに他ならない。その実質的な建造時期や歴史の再スタートは江戸とほぼ同時期であり、関東大震災や第二次世界大戦によって江戸の街が全て壊されたために、現代においては古都と呼べる雰囲気を持つが、江戸時代においては、江戸と比べてわずか数年古い程度でしかない。
また、ロドリゲスから見れば、当時の仏教的儀式が細かくいろいろ行われていたが、やっている当人たちは、意味もわからずやっていて信仰心は薄く虚構でしかないと見透かしていた。そのことに対して、無駄な時間を費やしているに他ならないと、記録している。おそらくそれは、実際に日本人から見聞きした一部の人の本音による推測だと思われるが、そういった文章の端々からロドリゲス本人は信心深いことも伺える。信長、秀吉、家康の時代を通して、それらの仏教的神道的な習慣は一般家庭ではかなり簡略化されたという。
茶の湯
ロドリゲス通事は、数ある優雅で優れている日本の様々な風習の中でも、とりわけ茶の湯について、詳細に書き綴っている。なぜなら、それこそが、最も異質で海外では見ることのない摩訶不思議な文化だからであろう。
贅の限りを尽くした屋敷の中にあって、茶室が持つ隠遁的孤独な雰囲気は、一際、貧乏臭く、田舎くさく、質素さと、素朴さが際立っている。にも関わらず、主人は数あるお屋敷の家屋の中でも格別に、丹精を込めてそれに全力を注いでいる。多くの使用人や料理人を使って贅沢ができる御座敷があるにも関わらず、茶室では、使用人は一才使わず、亭主自らが、準備を含めて全てを行い、自らお茶を立てて振る舞う。
いつもは親しくしているもの同士も、私語を慎み、静かに、質素で素朴な道具をありがたそうに眺め、亭主の姿を静観する。上下関係が厳しい社会の中でも、茶室においてはそれがなくなり、家来であっても招待されれば、それを快く受けて、最大の敬意を払って客人となる。
庭や路地の木々など、どれもが精一杯に人工物だと悟られないように、自然にできたかの様に見せる。床柱は、古いものが使われ、森からとったまま皮がついていて、自然のままに曲がっていたりするものを好んで使う。窓の格子や天井、屋根など全ての細部にわたって、古くて侘しい質素さを最大限に表現すべく、徹底的に拘っている。そして、中に通されると精錬された綺麗な灰と美しく並べられた炭があり、あまりにも調和がとれていて他に類をみない完成度。茶の湯と通じる隠居という習慣は、現代で言えば、引退みたいな意味に近いが、当時は髪を丸めて出家するに近い感覚で、仕事をやめるだけでなく家族とも別れて、静かな山奥で暮らすという本格的なスタイルが一般的だったそうだ。調べてみると日本の資料でも良くでてくる。