般若心経 自我からの解放

般若心経のタイトルは直訳すると「ブッダが説いた、深い智慧で真の悟りに辿り着く偉大な方法!」となります。

般若心経は、唐の時代に玄奘三蔵 (唐人600-664)がインドから持ち帰ったサンスクリット文字を漢字に訳した仏の教えとされていますが、原本はなく、それ以前の鳩摩羅什(ウィグル人350-409)が漢訳した経典も似ており、実際のルーツは謎のままです。

ドラゴンボールの孫悟空(おっす!おら悟空!)で誰もが知ることになった悟空も、三蔵法師が中国からインドへ旅した物語「西遊記」にて三蔵法師の弟子として登場しているキャラクターなのは知っている人が多いでしょう。これらは全てフィクションですが、極端な広義では大半の人が般若心経に間接的に触れているともいえますし、一方で、仏教に造詣が深く何年も勉強している人であっても般若心経が実際に何を意味しているか正確に答えられる人は、ほぼ皆無に等しいと言っても過言ではありません。

余談ですが、孫悟空のモデルとなった僧侶は同名で実在(731-812)していおり、彼も40年の旅を経てインドから経典や仏舎利を中国に持ち帰ってきています。

この様に、中国では西暦350〜840までの約500年間、たびたび政府から弾圧を受けつつも、仏教が非常に盛えた時期でした。840年に唐の武宗による大規模な弾圧で中国仏教は壊滅的なダメージを受け、ほぼ全てが失われましたが、直前に日本に輸出されたことで、密教の経典や曼荼羅が一部、難を逃れ、高野山で大切に守られ現在に至ります。

建築においてもあまり知られていませんが、516年に建てられた洛陽の永寧寺には高さ100mを超える九重の塔があったとされ、それらの仏教建築は日本に残るものと比較して、質、量ともに数十倍〜百倍以上とも試算されています。

さて、脱線しましたが、本題の「般若心経」に話を戻しましょう。Wikiからここに全文をコピペします。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩深般若波羅蜜多時照見五蘊度一切苦厄舎利子不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法眼界乃至無意識界無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切[注 5]顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経

タイトルを含めても282文字と非常に少ない漢文です。読経にかかる時間はゆっくり読んでも3〜4分と、ポップソング一曲分ぐらいです。こんな短い文に、仏教の全て、悟りの境地の真髄が書かれているとは俄かに信じられませんね。

タイトルのマカ・ハンニャ ハラミタは当て字。古代インドのパーリ語で、意味は、ざっくり「マカ(=偉大)な、パンニャ(=深い智慧)で、パラミ(=真の悟り)にタ(=辿り着いた)」という意味です。仏説は、字の通り「仏が説いた」の意味で、心経は、その方法というような意味で、曼荼羅の文字版といえばピンと来る人もいるかもしれません。

「心を開く魔法の言葉」とでもいうべきでしょうか。(発音はオリジナルのインド語ではパンニャですが、初期日本での濁音の表記の混乱から省かれ、現代のハンニャが一般的となりました。)

それでは、いくつかに分けて、直訳してみましょう。

(全てブッダが弟子のシャーリプトラに語るセリフとなっています)

観自在菩薩深般若波羅蜜多時照見五蘊度一切苦厄

かんじーざいぼーさー ぎょうじん はんにゃーはーらーみーたー じー しょうけん ごーうん かいくー どー いっさいくーやく

ボーディ・サットバ(=悟りを求めるもの)はパンニャ・パラミタの時、自分を含むこの世の全てが「空※」だと気がつき、一切の苦しみから解放されました。

舎利子不異空空不異色色即是空空即是色

しゃーりーしー しきふーいーくう くうふーいーしき しきそくぜーくうくうそくぜーしき

シャーリプトラ(=弟子)よ、「色(=事象)」は「空」と異ならない、「空」も「色」とは異ならない、つまり、「色」は「空」であって、「空」は「色」なんですよ

受想行識亦復如是

じゅー そう ぎょう しき やくぶーにょーぜー

「受=感覚」や「想=概念」、「行=志向」、「識=認識」も、これと同じなんですよ。

舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減

しゃーりーしー ぜーしょうほうくう そう ふーしょう ふーめつ ふーくー ふーじょう ふーぞう ふーげん

シャーリプトラよ、この世の「法(=物理法則)」も「空」であるなら、生まれることも、滅することも、汚れることも、浄化されることも、増えることも、減ることもできない。

是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意色声香味触法眼界乃至無意識界

ぜーこーくーちゅうむーしきむーじゅーそうぎょうしきむーげんにーびーぜっしんいーむーしきしょうこうみーそくほう

むーげんかいないしーむーいーしきかい

全てが「空」なんだから、「色」は無くて、「受」「想」「行」「識」も無いし、眼も耳も鼻も舌も身も心も無いし、それらで感じている色や声や香り、味、触感や心で感じるものもないし、目で見えてるこの物理世界も、目に見えない心の中の世界もない。

無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故

むーむーみょうやくむーむーみょうじんないしーむーろうしーやくむーろうしーじんむーくーしゅうめつどうむーちーやくむーとくいーむーしょーとっこー

「無明=心の迷い」も無いなら、「無明」が尽きることもない。そもそも、老いて死ぬことも無い訳だから、老いて死ぬ苦しみから逃れる術も無い。「苦集滅道=四諦=ブッダが説いた真理」も無ければ、それを知ることも得ることも無い。なぜなら、元々無いんだから。

菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙 無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃

ぼーだいさったーえーはんにゃーはーらーみーたーこーしんむーけーげーむーけーげーこーむーうーくーふーおんりーいっさいてんどうむーそうくーぎょうねーはん

ボーディ・サットバたちは、パンニャ・パラミタなので、心が囚われ(罣礙=釣り糸と網)ていません。囚われていないので、恐れるものもなく、逆らいや夢想から遠く離れ、究極の「涅槃=ニルヴァーナ=安らぎの地」にたどり着いている(究意=精神の到達)のです。

三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多

さんぜーしょーぶつえーはんにゃーはーらーみーたーこーとくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだいこーちーはんにゃーはーらーみーたー

ボーディたち歴代ブッダは、パンニャー・パラミタで「アヌッタラー・サムヤックサンボーディ(=この上ない正しく平等な目覚め)」を得られたのだから、パンニャ・パラミタを知るべきです。

是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪

ぜーだいじんしゅぜーだいみょうしゅぜーむーじょうーしゅぜーむーとうとうしゅのうじょーいっさいくーしんじつふーこーこーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅ

大神(=全てを超越した)、大明(=非常に明快で)無上(=この上なく素晴らしい)お呪いが是にあります。どこにも等しいもの等が無いお呪いです。これは一切の苦しみを除く能力があり、一切、虚偽のない真実の、パンニャ・パラミタのお呪いからです。

即説呪曰

そくせつしゅーわつ

即ち説いてくれたお呪い曰く・・・

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

ギャーテー、ギャーテー、ハーラー・ギャーテー、ハラソウ・ギャーテー、ボージー・ソワカー

(目指す者よ、上を目指す者よ、彼岸を目指す者よ、彼岸を目指す僧侶よ、その真の目覚めに幸あれ)

般若心経

パンニャー(深い智慧)の方法です。

以上が、直訳ということになります。ほとんどが、生きとし生けるもの、この世の全て、人々の思い、物質世界、精神世界、悟りの境地すらも、結局は全てが「空」だと、ひたすら同じことを繰り返し説得してくる内容でした。・・・じゃ、意味ないの?なんなの?と、本来なら到底受け入れられない内容ですが、ひたすらくどいぐらい同じことを繰り返す文章です。

極め付けが、最後、何やら、幸せになれる呪文があるから、何も考えずにとにかく唱えなさいという訳です。それが、「ギャーテー、ギャーテー」って、え?ちょっと、ファンタジーだったの?「それだけ?」「おまじない的な?」馬鹿にしないでよね〜と思うのが普通の反応です。

しかし、このしつこさの中で、そして、これが何千年と読まれ続け、現代でも多くの人を魅了して止まないのなら、きっと何かあるに違いないと注意深く、何度も何度も読み返すうちに、ふと何かに気が付くことがあります、そして仕方なく受け入れてみると、何故か背中がゾクゾクっとする・・・「本当にそうかもしれない」と共感が生まれる奇跡体験が起きます。なんとも奇妙で不思議な文章です。

そして、その感覚の中で、「ギャーテー、ギャーテー・・」と声に出して唱えてみるとなぜか不思議と「泣けてくる」んですね。それが何故なのか誰もが全く説明できません。心の中に何が起きているのでしょうか?

この感覚は曼荼羅と向き合っている時と非常に似た感覚があります。言葉と音の感覚はかなり不思議な力を持っていることを知らされる瞬間でもあります。これも、一種の超越した存在との遭遇ととることもできるかもしれません。

さて、般若心経には、日本語で「ない」(=あるの反対)と訳される漢字が3種類存在します。無・不・空です。これの違いについて少し触れてみたいと思います。

「不」の成り立ちは、女性の月経を表しているとされて、性行為ができないということに由来しており、行動を制限したり否定する意味で使われる漢字です。

「不」=主に行動の拒絶 

今回の心経では、不生不滅不垢不浄不増不減 とでてきますが、人の行動としてそれらを拒絶する、できないというニュアンスで、英語ならCAN’T に近いでしょう。

「無」の成り立ちは、無くて困っているものを欲し求めて拝み舞う姿に由来しており、本来有るべきもの、頭の中にはっきりイメージが描けるものが、欠落している状態を意味している漢字です。

「無」=有るべきものの欠落

今回の心経で最も多く出てくるのが、この無で、特に、無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故、など短い分に10回も出てきたりします。人間が欲しているものは、手に入らないという様なニュアンスに近い使われ方をしています。英語だとシンプルにNOということでしょうね。

「空」の成り立ちは、穴に串を刺しても何もささらなかったことに由来しており、そもそも、最初から捉えどころもなく、まったく想像もできず、実態すら認識できない、ぽかんとしている状態で、それに対する人の欲求や行動はさほど関係ないニュアンスで使われる漢字です。

色即是空空即是色

般若心経では、「空」序盤で出てきますが、つかみどころのない分かりにくい、不思議なイメージから始まっていることがわかります。英語ならEMPTYよりもVOIDに近い感覚で、その分かりにくさゆえに「器」がセットになることが多い漢字でもありますね。

このように、「ない」と、単純に訳すのではなく、不無空の意味の違いに注目してどのように使い分けられているかと考えると、少し理解が先に進みます。

改めて、最初から般若心経を読んでみましょう。

まず、頭ごなしに「世界は空だ!」と決めつけられ、「色」と「空」が別物と認識するのは、やめろと勧められます。凡人の我々には、難解過ぎます。「世界は空だ!」だから、自分が生きてるとか、いつか死ぬとか、汚れているとか、綺麗だとか、持っているものを増やしたいとか、減っちゃうとか、そういう考えかたや、行動はお勧めしませんよ〜。と続きます。

凡人の我々にはむしろ、ずっとそればかり言われ続け、そればかり気にしてきたのではないでしょうか?人は人の命を大切にし、身も心が汚れないように綺麗であろうとしたり、お金をたくさん稼いで、人から盗られない様に気を付ける様に教わってきたのではないでしょうか?でも、その逆だと言うのです。

「世界は空!」ってことは、手に入るものはありません。手に入らないのは、ものだけじゃないです。概念、人の想い、希望も、知識も、手に入るというのは思い込みなんです。耳、目、鼻、舌、体も、それらで感じている音や色、匂いや味、触ったものも、確かに感じるかもしれないけど、自分が手に入れたり所有していると思うのは、そう思い込んでるだけ。自分の財産だと思っているもの、それ自体には本当は固定された実態なんてなく、常にうつろうものであって、自分自身もうつろうものであって、全ては流れであり、波であり、固定された財産なんてものは、本当はありません。

自分が不安になりたいとは思わないのだから、不安を払拭しようと思う必要もありません。自ら老いて死にたいと思わないのだから、老いたく無いとか、死にたく無いと思う必要もありません。ブッダが説いた「苦集滅道」の真理を解いて、なんとかそれを手に入れようと思う必要もありません。そもそも、自分は何も手に入れることなんてできません。だって、知識も真理もうつろうもので、自分もうつろうもので、何かを完全に所有したりなんて空想の産物でしかありません。

完全なる平等な目覚めを手に入れた天才的な賢者たちは、智慧を使って完全なる悟りに辿り着いたんです。あなたもそれに習ったらどうでしょう?

彼らが、この上ない素晴らしいおまじないを残してくれました。全てを超越したおまじないです。似た様なものすら見つけることができない最強のおまじないです。一切の苦しみから解き放してくれるおまじないです。一切、嘘がない真実のおまじないです。それが、ハンニャ〜・ハラミタ〜のおまじないだからです。

そのおまじないがこれです。

ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソウギャーテー、ボージー・ソワカー。

上を目指すもの、上を目指すもの、もっと上、そらにその上を目指すもの、辿り着いたものに幸あれ。

もう一度、改めて、最初から般若心経を読んでみましょう。

ひょっとすると「世界は空!」かもしれないと、自分の中で少しずつ変わってきた感覚はありませんか?空とは実態のない、うつろうものです。「この世の全て」が「うつろうもの」で関係性だけで成り立っているなら、無理に生きようとか、死のうとか考える必要はないんです。お金を稼ごうとか、綺麗になろうとか、考えて行動するよりも、単に流れに身を任せるだけでいいのかもしれません。

関係性だけによってうつろうものであるならば、流れに身をまかせ、目や耳や鼻や舌や手で触ったりしたものは、参考程度にとどめて、心の中に一生懸命、旅する必要もない。ただ、日々を淡々と過ごす。うつろう世界で、流れを感じるだけで、老いるとか死とか意識するも必要ない。あらたな、イデオロギーを手に入れようとかそういう欲も全く必要ない。ただ、この世界の中で生きていけばいい。

ああ、平穏な世界に辿りついた偉大なる先人たち、私をお導きください。全てと繋がり、宇宙の一部となり、悩みのない世界へと連れてってください。

ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソー・ギャーテー、ボージーソワカ〜

わかったつもりになれましたか?でも、それは、わかったつもりなのかもしれません。

もう一度、最初から般若心経を読んでみましょう。

本当に「世界は空」なのだろうか?やっぱり心の中はうつろうものですね。自然の流れに身を任せてみたら、結局、お金は欲しいし、食べ物は必要だし、綺麗になりたいし、老けたくないし、死にたくないとなります。たしかに人の心はうつろうものですけど、結局、こういった「色」にとらわれてしか生きていけないし、それゆえに、苦しみから逃れることもできません。目や耳や鼻や舌や手で触ったもの全てが、苦しみという幻で自分を包み込もうとします。心の旅にでたい、現実をはなれたい、世の中に逆らいたい、人間関係のしがらみから離れたい、自然に任せるなんてできない。ああ、どうすればいいのだろう。悩みや不安が消え去りません。

こんなおまじないを唱えて、本当に彼岸にいけるのでしょうか?偉大なる先人たちよ我に力をお与えください。

ギャーテー、ギャーテー、ハーラー・ギャーテー、ハラソー・ギャーテー、ボージーソワカー。

この般若心経は、なかなかに完成度が高く、シンプルで奥が深く、唱えるたび、聞き流す度にうつろい、メッセージが無限に変化していくものです。あきらめずに、10回、100回、1000回と、繰り返してみると必ず新たな発見があります。

最初からもう一度読んでみましょう。

この世は「空」です。「空」は中国漢字ですが、古代インド、パーリ語(ご真言)では「シュニャター」といいます。シュニャターは0記号の期限です。古代インド人が「シュニャター」に注目し、数学的構造に0を加えたことで、数学はそれまでとは次元の違うレベルに達することができました。この「シュニャター」の発見は、全ての理論数学、物理学の根源として発展し、現在のデジタル世界の発展の基礎を構築した、人類の智慧の最高到達点とも言われています。

「シュニャター」は、見えない微粒子が連続し、関係しあいエネルギーがぶつかり合い均衡が保たれている、はかない瞬間を指すとも言われています。泡が連続しているような状況です。人は生や死というものを強く特別なものとして認識しますが、人が生きるということは、太陽、地球、動植物、空や海、それらの全体によって動かされている一部として、光り輝いているに過ぎません。この世の全てが繋がっていて相互的に関係し、一つの同じ種類のエネルギーがその中を循環しています。眼で見るとき、耳で聞くとき、あなたは見ている自分を主体と考え、見えてる対象を客体として、主と客を分けて考えています。しかし、「シュニャター」の考えでは、見ている主体も、見られている客体も、分ける必要はなく、全体で一つの存在として認識します。0と1は、別々の存在ではなく、その連続した関係性によって一つの全を完成させるのです。

目、耳、鼻、舌、手による感覚器は、その連続した関係性を特定の色や形、音、匂い、味、硬さとして認識する能力があります。人間の肉体を形成する全ての細胞は顕微鏡でみれば細胞膜もあり、泡の様な構造で内と外があって、それは肉体と切り離すこともできます。肉体から切り離された細胞は、主であるあなたにとっては関係性が失われ、痛みとして神経細胞を通じて脳に信号が送られたあと、意味をなさないただの塵となり役割を閉じます。人は細胞同士の無数のネットワークによって組織的に、あなたという主体的なイメージを作り出しています。それら小さな細胞たちは、あなた全体の主体とは比べものにならないほど早いスピードと生と死を繰り返しています。寿命を全うした自然に死んだ細胞であれば、痛みは通達されず、それに気がつくこともありません。

宇宙全体が一つの主体だと捉えてみてください。あなたは、その全体を作り出すための無数のネットワークの一部として一瞬だけ光り輝く細胞です。あなた自身という主体をそれ以外の客体と分けている妄想から解放される「シュニャター」を感じましょう。その、肉体という泡の中に囚われている精神を、解放しましょう。

「無罣礙」ムーケーゲーです。

細胞膜の外へ意識を向けるのです。主体である宇宙が何をあなたという細胞に対して求めているのか、この宇宙全体の中であなたという細胞は、どの様なネットワークでどの様な役割で、何を期待されているのか考えてみましょう。

偉大なる宇宙全体という主体があり、その細胞の一つとしてあなたの魂が生かされているに過ぎないとしたら、これまでのあなたの持っていた感情はさほど深い意味がなかったかもしれません。そして、逆に役に立ってないということでもないのです。

あなたは、どういう組織に属していすか?あなたの家族ですか?何かの企業という組織に属していますか?国家政府という組織に属していますか? 

分かりやすくするために、人の肉体に例えてみようと思います。

人の肉体は宇宙全体だと想像して、人、一人一人が小さな細胞だとしましょう。小さくて目に見えない細胞も、実はちゃんと呼吸し、食事し、睡眠もするそうです。そんなに突飛な例えでもありません。人と細胞は非常に似ている存在です。

例えば、目という大きな組織の中に小さな網膜という組織があり、その網膜の片目にだけでも1億を超えるさまざまな役割をもった細胞があります。光を感じる錐体細胞には、赤で反応する細胞、緑で反応する細胞、青で反応する細胞、それぞれ全く別の能力をもつ細胞が共存しお互いに情報を共有し、一斉に視神経に送ることで1億段階とも言われる細かな色を認識することができるのです。他にも、夜間活動する桿体細胞などもいます。網膜という組織は独立した組織で、目的は光を感じて正確な情報を視神経に送ることですが、緑を感じる細胞や、青を感じる細胞の量に差があると正確な情報が伝わらないため、細胞の数が平等になるような本能が備わっています。そのため、細胞同士は増えたり減ったりすると互いに争いあって数の均衡を保つこともあります。

例えば、強い青い光を見たせいで、あなたの網膜で青い細胞が減ってきたとしましょう。この時、青い細胞は生き残ろうと必死になり、緑の細胞を攻撃し始め、失った領土を奪い取ろうとします。あなたの体の中の、眼球という組織の中、さらにその小さなパーツである網膜という小さな組織の一部のエリアで今も細胞たちが、憎しみあい領土を奪い合い戦争を繰り返しています。あなたにとってそれは、眩しいとか、目が眩んだとか、疲れたという現象として脳に現れるに過ぎません。

網膜という組織の目的は視神経に光の情報を伝えるということだけに他ならないからです。しかし、自らを主体だと認識している緑の細胞はその目的に気が付いていないのです。仲間が青の細胞に領土を奪われたと嘆いてるかもしれません。

今、目を瞑ってそのことを想像してください。あなたからすれば、青の細胞が増えたことで視界を取り戻し、助かったところです。しかし、青の細胞に殺された緑の細胞にあなたはなんて声をかけてあげますか?「おつかれさま、そんなこともあるさ、いつもありがとう」とかでしょうか?

これは、例え話でしたが、この質問は、今、この瞬間、実際にあなたの眼球の中で起きているリアルな現象です。目を瞑れば、あなたの網膜で無数の細胞たちが争っていて、血の海が広がっているはずです。

人間の体というのは人間の数より遥かに多い、数億種類にも及ぶ4兆個とも6兆個とも言われている無数の細胞によって完成している超巨大な組織です。それらの細胞の一つ一つは、自分がどんな姿をしているかも知らず、日々、淡々と仕事をこなし食事をし、子孫を残し、皮膚細胞なら僅か1週間で寿命を迎え、塵となって消え去ります。他人の細胞が体内に入り込むようなことがあれば、その異質さから拒絶反応を起こし、組織全体の危機となるほどの宇宙大戦争に発展することも有ります。常に外敵の侵略にさらされる、口腔、食道、胃腸は、自分の肉体とは神経がつながっていない腸内細菌たちと合同訓練を繰り返し、来るべき大戦争に備えて免疫と呼ばれる強力な防衛軍を組織しています。

人が人体について知っている情報は、人が地球外について知っている情報の数百倍から数千倍とも言われているほど広大で複雑です。

そんな巨大な宇宙ともいうべき組織を形成している人間であるあなた自身も現在70億ともいわれている人間社会という大きな組織を形成している一員です。

そして、人間社会も、他の動植物の大きな組織を形成し、食物連鎖の流れのなかで命が循環している生態系という一つの大きな組織と捉えることができます。そして、独立していると思われる地球生態系という組織も、地球という大地の恵み、太陽のエネルギーなしでは1秒たりとも存在できない、相互関係にあり、全ては太陽系の意識によって動かされているに過ぎず、地球生態系も太陽系という恒星系の小さな小さな一部でしかありません。さらにいえば、太陽系も、銀河系という2000億個の恒星系によって作られたたった一つの巨大組織の一部に過ぎません。

あなたにとって、憎しみや恐れという感情があったとしても、その感情すら銀河系からすれば、全く別のもっと大きな目的を達成させるために必要な一つの要素に過ぎないのです。主と客という2言論で自分と自分以外を分けて考えるようになった人間はそのことを「自我」の目覚めと表現しています。個々に名前を付け、個別に認識し、それぞれがどの役割を果たし、財産や権力を明確にし、組織として機能しています。そうでなければ宇宙の大きな目的が達成できないからに過ぎません。

緑の細胞だって同じです。人体頭部、眼球体系、網膜地方、錐体細胞属、緑認識係、28代目当主、3週目、左から4番目担当、残り寿命7日、として、日々淡々と働き、あなたにとって大きな目標である、「見る」という壮大な目的を実現しているのです。緑の細胞の先祖はその昔、海で泳いでいて、浮遊していただけかもしれません。まだ自分の役割には気がつかず、何の役に立つのかもわかっていませんでした。しかし、その子孫は、いずれ、他の色の細胞と結合し、網膜を形成し、水晶体などと結合し、視神経とニューラルネットワークを使って、画像認識技術まで手に入れて、究極の目的を実現したのです。緑の細胞は、本人とは全く別次元の高いところで、とんでもない崇高な目的のために働いています。人間の目となった緑の細胞は、今、あなたの目となり、思考を支え、文字を発明し、数学を使って、宇宙の不思議を解明し、iphoneを作り出し、地球を脱出し月面を歩くようになっていることにおいて、重要な役割を担っていることに気がついているだろうか・・・

我々も、緑の細胞が自らの偉大さに気が付いていない様に、なぜ、人間が社会を形成し、役割を決め、財産や権利を振り分け、ピラミッドを作ったり、戦争したり金融危機に陥ったり、地球温暖化、パンデミック、デジタル、新興宗教などなどいろいろなことで右往左往しているのか、その真の目的にまだ気がついていなだけかもしれません。場合によっては、我々は、緑の細胞が網膜として機能する前の状態で、現時点では人間社会の目的はまだ、決まっていないのかもしれません。来たるべき未来のために、大いなる銀河の大きな目的のために、海で密かに育った小さな緑の細胞のように、のちに宇宙の大いなる意志が、偉大な目的を果たすために、我々が銀河の目となり、耳となる日が来るのかもしれません。その、壮大な目的に思いを馳せれば、我々の苦しみは、いたって小さな問題に過ぎず、その苦しむすら偉大な目的のために用意された大切な要素かもしれないのです。

大いなる太陽系、いや、銀河全体、宇宙全体は、たった一つの大きな命で、あなたはその細胞なのです。そして、宇宙はきっと、「おつかれさま、そんなこともあるさ、いつもありがとう」と声をかけてくれているのかもしれません。

色即是空空即是色。

この言葉は、われわれが偉大な宇宙の一部であること、全てが肯定されるべき、素晴らしき奇跡の連続であることを、気づかせようとしているのです。

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