永遠の皇帝 カエサル❶ 「誕生」

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プトレマイオス王朝は、アレキサンダーが創始者

アレキサンダーによって示された「圧倒的なる善」による世界征服は、アレキサンダーの死によってあっけなく分裂し薄まり、継続することは叶いませんでした。これによって、アリストテレスが考案しアレキサンダーが実践した「圧倒的なる善」は、多大なる影響を後世に残したものの、次世代にそのままの形では遺伝しないことが証明されました。君主制は、理想論では最も優れていましたが、数世代に渡るような長い目でみると非現実的でリスクの高いものでした。分裂したアレキサンダー帝国の分割統治国の中でも最もアレキサンダーらしさを後世まで残したのは、アレキサンドリアを首都としたエジプトのプトレマイオス朝でした。

プトレマイオスは、王朝の名として知られていますが、彼はアレキサンダーの親戚であり、一緒に「アテナイの学堂」で学んだ重要人物です。プトレマイオスはアレキサンダー大王(エジプトのファラオ)の正式な後継者としてファラオに選ばれたことで権威を得ていたので、当時の人からすれば、王家はアレキサンダーだと認識していました。アレキサンダーは後のエジプトの人々の心の奥深くに君臨し続け、「アレキサンダー=圧倒的なる善」の影響力は絶大なものでした。

当時ローマは小さな国で、無視されていた

アレキサンダーが活躍していた紀元前300年頃のローマといえば、北部の野蛮なガリア人からの侵略に苦しんでいた時代で、その領土の大きさはイタリア半島のローマ付近の一部だけ、関東平野よりも小さなもので、取るに足らない小国でした。アレキサンダーが志し半ばの33歳でバビロンで死なず、もし60歳まで生きていたらローマもアレキサンドリアという名前に変わっていたかもしれませんが、それは叶いませんでした。残されたアレキサンダーの分割統治された各国にできたことは、他国への侵略戦争ではなく集めた富を「知=善=図書館」に惜しみなく注ぐことぐらいでした。ギリシャの学者たちの多くはアレキサンドリアにも移り住み、当時のシンクタンクとしての地位は確立でき、さらに富は膨れ上がりましたが、平和と引き換えに兵士の勇敢さと軍事力は相対的に弱くなってしまいました。この間に、アレクサンダーから支配を受けなかった地中海西側諸国のローマとカルタゴは戦争を繰り返し、稀代の戦の天才、カルタゴの武将ハンニバルから、多くを学び吸収し、ローマはメキメキと経済力と軍事力を増大させていきました。

ローマは「成長と再配分」によって巨大化しました。

ローマの歴史に関してはルビキタス「真・人類全史」で既出ですが、そもそも帝国なんてものは存在していません。ローマにはずっとSPQRがあるだけです。これは、「ローマの元老院と市民」という意味です。ここに、アリストテレスが考えるアレキサンダー的な「善」の君主は全く存在しません。むしろ、真逆です。

ローマは、元老院という一部の人が富を集めて再配分するというシステムを考え出し、このシステムに権威があり、ギリシャほど哲学は重視されていませんでした。SPQRというシステムが考案した法律さえ守れば、それ以外は基本的に何をしてもOK。自由で個性と多様性を尊重する実力主義で、一人の英雄が独裁者気取りをしては、システムによって追放されるか粛清(暗殺)されるかの繰り返しでした。現在の資本主義ともの凄く似ていて、これが当時の経済成長の起爆剤とも言われています。今も「成長と再配分」なんて総理が言ってますが、元々「SPQR」が作ったシステムをお手本にしているということです。出る杭が打たれるという日本の状況と少し似ている部分も多いです。

急激な成長に再配分が追いつかなくなりました。

SPQRでは、急激な経済成長の中で、現代日本と同じく貧富の差が広っていきました。紀元前146年にカルタゴとギリシャを圧倒的な経済力と軍事力で同時に制圧し支配下に置くと、急激に領土と経済力が増大してしまったせいで、植民先まで行き届いた再配分がスケール的に滞ります。首都部に驚異的なスーパーリッチが更に富を肥やす一方で、貧困層もその量と深刻さが増していきました。このことで民衆と貴族との対立が生まれてしまいます。民衆が反乱を起こさない様にコントロールすることは、ローマ政治において最も重要です。

カエサルは帝王切開の意味?!

カエサルとは、カルタゴ語で象意味したことから、それが由来としている本が多いですが、それは、ハンニバルが象軍を多様していたせいで、後にカエサルの家紋として象があしらわれるようになったという説の方がイタリアでは主力です。私の母はイタリア人ですが、姉を出産したさいに「帝王切開」をしていました。母に「なんで腹を切るのに帝王の文字が入るの?」と質問したら、元々ラテン語でカエサルの意味が開腹手術だったそうで、カエサル家の祖先が開腹手術で生まれて来たことに由来していたそうなんです。後にユリウス・カエサルのせいでカエサルの意味が帝王に変わってしまったことで、出産における開腹手術が帝王切開と誤訳されるようになったのだとか・・・。なかなか説得力のある説だと思いました。ただ、我らのカエサルが「帝王切開」で生まれたわけではありません。あくまでカエサル家の祖先がということです。カエサル家は、ユリウス一門というローマでは1、2を争う歴史ある名門貴族の出身でした。しかし、我らがユリウス・カエサルが誕生した当時は、少しだけ落ちぶれてしまい、大豪邸が立ち並ぶパラティーノ(宮殿の語源)の丘ではなく、平地のフォロ・ロマーノの近くである庶民が住むエリアに住んでいたと言われています。五階建のマンションが主流だった庶民生活の中では、一戸建てに住んでいたと思われ、もちろん、庶民とはレベルの違う、まあまあ恵まれていた家庭でしたが、若きカエサルにとってその環境は、強烈な野心を育てるのに最適だったと想像できます。

少年期のカエサルには「悔しさ」があった

人間が人一倍頑張る時の原動力として「悔しさ」というのは、ありますが一番原動力になる「悔しさ」にはある特徴があります。「あと少しで手に入る」という感覚です。全然無理なものに圧倒的悔しさの感情は起こりませんが、もう少しで手に入る時、感情は揺れ動きます。若きカエサルは、豪勢な大富豪が住むパラティーノの丘の大邸宅が視界に入ってました。しかし、自分は遥か丘の下の低地に居たのです。しかも、11歳になった頃に、近い親戚である叔父のユリウス・カエサルがローマの最高権力者「執政官」の地位を得たのです。叔父は、ローマ近郊の同盟国による市民権欲しさの反乱である「同盟者戦役」の前線で武将として大活躍をしていました。カエサル家でも、食事の時はその話で持ちきりだったことでしょう。カエサル家は、あと少しでパラティーノの丘の大邸宅暮らしに手が届いた名家だったのです。叔父は、死者も多数出た苛烈な「同盟者戦役」で勝利し、英雄となりました。もっとすごいのは、敗者となった全同盟国にローマ市民権を与える「ユリウス市民権法」を成立させた事です。このローマ得意の吸収合併によって、ローマは後に帝国と呼ばれる礎を作ることになったのです。11歳でどこまでその凄さを理解していたかはさておき、それが世界を変えるほどの熱狂的なことだったこと、そしてそれを近しい親戚が中心に起こしていることだったことになんとなく気がついていたのではないだろうか?おそらく少年カエサルは、自分だって、いつかは世界を変える様なことをしたいという思いが、この頃に芽生えたのかもしれません。今では、全世界の人にとって安定した生活が保証される国民の一員であることは一般的ですが、古代ローマの時代に社会保障のある市民権を持っているということは、かなり特別なことでした。それが被支配国である植民地や同盟国に対して与えるというのは、衝撃的なことでした。大日本帝国時代に、支配したアジア諸国の全員を、無条件で日本人として受け入れます。という法律を可決したようなものです。それが、どれほど劇的なことか想像できますか?この興奮をカエサルは幼少期に、親戚の叔父さんが成したという事実を味わい、小国ローマが大帝国へと激変していこうとしている様を目の当たりにしたのです。

カエサルのトラウマ

このあとすぐ、カエサルの叔母にあたるユリア・カエサリアの夫マリウス(平民の出で軍事成果で英雄になった)がマリウスの元部下だったスッラと小競り合いを起こし、内戦に発展してしまいました。マリウスは執政官の座を不当に奪いとり、強引にスッラを失脚させますが、それに反発したスッラは、ローマを出て遠征軍を掌握し6個軍団を引き連れて首都ローマに攻め込みました。フォロロマーノで市民兵を打ちまかし、執政官の座をマリウスから暴力で奪え返し、敗走したマリウスは同盟国のエジプトへ亡命します。しかし、スッラが執政官の座を持って東方遠征に出ると今度は、またすぐローマ内部でマリウス側がスッラ側を転覆させてしまいました。それを聞きつけたマリウスは、亡命先のエジプトから戻り、気が狂ったかの様にローマで復讐の怨念を晴らします。内戦の際にスッラ側に従ったとして、執政官を含む元老院50人と貴族を1000人をも大量虐殺したのです。当時の元老院(国会議員)の六分の1を殺すなど正気の沙汰じゃありません。ローマ市内でローマの執政官を含む元老院がこれだけ殺されるなんて事件は、史上初めてのことでした。そして、この際に執政官だったカエサルの叔父もマリウスの妻の内縁だったにも関わらず、ただスッラ側に加担したという理由だけで首をはねられ、その弟と共にカエサルの自宅からすぐ目の前のフォロロマーノで晒し首にされてしてしまったのです。カエサルが、これを見たという記述は残っていませんが、カエサルが生涯に渡って血の匂いが嫌いだったという記述は残っています。なんせ、まだ13歳でしたから・・・恐らく見たとしても記憶から抹消したのかもしれません。そして、ある程度事態を把握し始めた年頃でもあったとも言えます。平和なローマ市内において、自分の叔母の旦那が、自分の叔父二人を殺害したとは、なんとも忌まわしく恐ろしい事件でした。そして、そのマリウスも70歳の老人でしたから、突然死んでしまい、結局、ローマの中心で世界を動かしていた身近な親戚たちは、殺し合った挙句に全滅してしまったのです。ここに、若きカエサルが、耐え難い恐怖と虚しさそして悲しさを覚えたのは言うまでもありません。権力欲に溺れ、殺し合いに明け暮れるローマ人たちの現状を少しでも浄化できないものか、真剣に悩んだことに違いありません。しかし、カエサルの両親は健在でしたし、また政界において実力者だった賢母ユリアの愛もあり、深く思い詰めることなく、健全な青年期を過ごしたとされています。

インテリで反抗的な青年期

11歳から16歳(現在の小6〜高1)ぐらいまでのカエサルの家庭教師はガリア人でエジプトのアレキサンドリアで修学した人でした。この当時のローマでは、アテナで学んだギリシア人が超高級家庭教師として重宝され、かなりの高給取りでした。つまり、ローマ人は、ギリシア人を始めとした外国人の方がローマ人より勉学に秀でている民族として認めていたし、言い変えればローマ人は自分たちが、お勉強に対してそれほど秀才じゃないことを知っていたのです。まして、カエサルはその事実を知りながら、アテナ出身でもなく、ギリシア人でもない二流の家庭教師に教わっていたのですから、2流だったという自覚はあったと思います。ともあれ、誰から学んだにせよ、学んだ内容はアリストテレスから繋がるギリシアの学問で、プラトンが書いた本を朗読させられていたようです。カエサルはギリシア語もラテン語も母国語の様に操り、読み書きもこなしました。ギリシア人はかなり「善」に対する信念が強そうなですが、ガリア人は、より客観的な視点を持っていたんじゃないかと思います。「ギリシア人の言っていることも一理ある」程度の教え方だったのかもしれませんね。この教育によりカエサルは、より柔軟性のある戦略家としての素地を身につけたのかもしれません。カエサルは後に文筆家としても有名になりますがこの頃に、すでに明瞭で簡潔な文章の書き方を教わったのかと思います。勉学だけでなく体育に関しても、恵まれた体型ではないにせよ、子どもの頃から近くのチルコ・マッシモで鍛錬に励んでおり乗馬が得意だった記録が残っています。16歳にもなると、あのトラウマから3年も経ち、少年は立ち直っていたことでしょう。ちょうど、この年に父親も自然死で亡くなってしまいます。まあ、当時のローマなら珍しいことではありませんでしたが、カエサルは16歳にして一家の家長となりました。母親ユリアは再婚もせず面倒見が良かったらしく、周りの庶民に比べればそれなりにリッチだったわけで、喪が明ければ楽しい平和な日常をすぐに取り戻したはずです。普段の様子は、カエサルの家には奴隷がいましたが、当時の奴隷はかなり高待遇で、教育も受けられ収入もあったそうで、虐待も禁止されていたそうです。カエサル家の奴隷は中でもかなりの高待遇で現代日本に例えるなら一部上場企業に就職できたぐらいの感覚だったと考えた方が良いです。カエサルはどこに行くにも奴隷か従者を5~10人ぐらい引き連れて行動するのが常で、インテリでありながらもド派手で目立つ存在でした。この時代、合法だったことに以下のことがあります。

執政官が敵とみなした場合、法による弁護なく独断での殺害(元老院最終勧告)

50%近い悪徳な高利貸し、不当な不動産売買や、高額な手数料を取るなど

人身売買(トレード)や、借金返済の代わりに債権者が債務者の妻などを連れ去るなど

元老院議員(公務員)は無制限に賄賂を受け取れ、数々の既得権益が認められていた

元老院議会は密室で、納税者名簿も非公開で、彼らの不正は市民が隠されていた

などなど、現代では許されないような状況がまかり通っており、それに対して市民に不満が多かったと思います。カエサルは、貴族でありながら庶民の気持ちを理解できるエリアで過ごしており、そういった友達も多かったと思います。そんなカエサルは、その当時から少し元老院の既得権益に対する反発があり、ローマ国家のあり方を批判する立場をとっていたと想像できます。

海賊相手にも動じない「なめんなよ!」精神

まもなくカエサルには、マリウス派の執政官キンナから、娘との政略結婚の話が飛び込みました。カエサルはかなり裕福な許嫁がいましたが、その子と婚約破棄して、その話に飛びつきました。経済的なことより政治的な結びつきを優先した証拠であり、これは、カエサルに政治的な野心が当時からあったことを裏付けています。しかし、キンナは政治的混乱の中ですぐに殺されてしまいました。しかも、大群を連れて東方遠征から戻ってきた最強軍団のスッラは、迎え撃ったローマ正規軍に圧勝し、再び堂々とローマ市内に入り、今度は二度と反乱を起こせないように徹底的にマリウス派を一掃する作戦に出たのです。当時17歳だったカエサルにはそこまでの読みはなかったことでしょう。そして、カエサルもマリウス派の執政官キンナと結婚していたために処刑リストに入れられてしまいました。スッラから「キンナの娘との離婚」を条件とした免除が言い渡されましたが、自分の子を妊娠していたキンナの娘との離婚という理不尽な条件に、カエサルは断固として「NO」を言い渡し、国外へ亡命するという道を選びました。変わり身は早く、女癖は良くなかったカエサルですが、奥さんを愛していたからというよりも、理不尽な国家権力には屈しないという姿勢の方が強かったと感じられます。カエサルは、執拗なスッラの追手を撒くのに小アジアにまで逃げのび、異国の軍隊に傭兵として忍び込み、戦争に参加しながら小さな武勲をあげたりして過ごしました。22歳になった時、ローマでスッラが死んだというニュースが飛び込んできて、カエサルは急いでローマに戻りました。初対面の娘「ユリア」は、もう4〜5歳になっており、さぞ可愛かったことでしょう。戻ったカエサルは、ローマで弁護士としてキャリアを積もうと考えました。当時は花形ですし政治家を目指す最短ルートだと考えられていました。しかし、スッラの元側近を告発するという、カエサルの反骨精神の強さが仇となり、実力不足も加わりあっけなく敗訴していしまい、結果、スッラ派がまだ主力だった元老院派にまたも生命を狙われてしまいました。そして、またも国外に逃亡する羽目になったのです。この件に関しては、カエサルが戦略的にわざと行った可能性もあります。スッラ派の影響がどれほど元老院の間で幅を効かしているのかどうかを確かめつつ、もしそれが強過ぎるなら、もう少しほとぼりが冷めるまで、国外で活躍した方が自分のためになると考えたかもしれないということです。それにしても、カエサルは毎回、逃げ足が早いです。ローマの外を出ても周りの支援者に恵まれていた証拠ですね。「ユリウス市民権法」という奇跡を成し得た名家の子ですから、近隣の同盟国の市民の間では、それなりにカエサルもヒーロー扱いだった可能性が高いです。カエサルはロードス島に留学という道を選びますが、その道中で海賊との出会いの話があります・・・この辺りの話は、若干、物語的に盛ってる感が匂いますが・・・。海賊に付けられた身代金を自ら値上げし、親戚筋を介して身代金を用意させ支払わせ、解放されてからすぐに軍隊を編成し、海賊を追って討伐し、身代金を取り戻し、逆に海賊の財宝を奪い、捕虜にして全員処刑したそうです。まだ若干22歳の若者ですから、これがほんとだとしたら、かなり度胸があって天才的な才覚の持ち主だったということが言える話だと思います。実際はめちゃめちゃ怖かったでしょうし、生き延びるのに必死で頑張って、いろいろ策を巡らした結果、いろいろラッキーが続いたということもあったでしょう。それでも、解放されたあとに、ちゃんとやり返すという勇気は、立派なものです。周りの人達に「なめんなよ!」っていう威勢を見せる男気が感じられますし、親戚や同盟国からの厚い信頼とサポートがあったことをさらに裏付けている証拠でもあります。

女たらしで借金王の壮年期

ロードス島での留学はさして興味もなく叔父(母型)が近くに総督として就任したと聞いて、一年ぐらいですぐ中退し、叔父の方へ様子を見に行っていたそうです。カエサルの読み通り、ローマにおいてスッラ派の強硬姿勢が少し軟化したとの噂を聞きつけ、カエサルはローマに戻ります。この後、数年間、出世で目立つというより、元老院の妻の三分の1を寝とったとか、借金は1300タレント(現代日本円換算で少なくとも3000億円以上=地金換算約50トンぐらい)だったとかということで目立っていました。いくら名家の出とはいえ、あり得ない大金を借金していました。これには、クラッススというパラティーノの丘に住む当時1、2を争う大富豪のクラッススが肩入れしていたと記録に残っています。本人が債権者になるだけでなく他の債権者に対しての保証人にもなったことで、カエサルは無尽蔵に借りられるようになったと言われています。そんなに大借金を抱えていながらも、カエサルはなんとも思っていなかったようです。名誉職についてスペインに転勤になった際、神殿の前で「アレキサンダーが世界征服した年齢になったのに、自分は何一つしてないではないか!」と独り言を呟いたと後に歴史家が描いた記述は有名です。カエサルは、30歳の時点では、女たらしで借金王というキャラとして超有名人でしたが、政治的、軍事的な成果はほとんどありませんでした。アイロニーとユーモアは相当あったらしく、モテたことは言うまでもありません。ここでカエサルがアレキサンダーと比較していたのは、自分の節操ないライフスタイルに対する反省も少なからずあったのかもしれませんね。ただ、この時期のカエサルは、無自覚であるにせよ、計らずして後に世界を一変させるために必要な準備をしていたと考えられます。カエサルは金の入手方法こそ手段は問いませんでしたが、使い道に関しては、かなり尊敬される公共事業なんかを手がけて市民からの支持を得ていたのです。そして、お金の使い方についても、大量に手に入れ、大量に使っていたからこそ学べたことがたくさんあったと思います。逸話として、戦争に出る時は、大隊長と団長たち高官から借金をして、それを、一般兵士にボーナスとして配布しました。勝利すれば総司令官のカエサルは、余裕で借金を返せます。大隊長や団長たちは、貸した金を無駄にしたくないと戦争に対する真剣さがアップしますし、逆に兵士は貰ったボーナスを家族の元に持ち帰りたいという気持ちになり士気がぐっとアップします。このことで軍隊はより少ない被害で短期間に圧倒的な勝利を得やすくなったと言われています。そして結果、カエサルの名声もアップするのです。部下の上級士官からお金を徴収し、下級兵士にばら撒きをするというのは、まさに富の集中と再配分であり、これはSPQRの政治システムの基本的構造です。お金は、この富の集中と再配によって、1石で2鳥どころか、3鳥も4鳥もゲットできることをカエサルは自分で証明し多数、実践し成功体験を積んでいきました。これが、カエサルの直感とアイデアと政治的ビジョンの明瞭さを開花させる礎になったのです。

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